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マルクス・ガブリエルの新実在論への批判・・・三つの観点からの考察

 マルクス・ガブリエルは、「なぜ世界は存在しないのか」という哲学書において、世界は存在しないと豪語している。そして、自然科学における唯物的宇宙が世界全体(全ての存在者が置かれている包括的な場所)であるとする考えを否定する。全てを包括する場所としての世界が存在しない理由は単純である。全ての存在物は限定された個々の意味の場において存在するが、定義上、全ての意味の場を包括する場としての世界は、それ故、外がなく無限定・無意味であり、指し示すことができず、存在しないのと同義であると考えられるからである。すなわち、マルクス・ガブリエルは、存在するとは、何らかの限定された意味の場のなかに現れることであると考えているわけであり、世界全体という無限定な場所の存在は認めない。この考えに共鳴し、多くの哲学の徒が虜にされてきた。日本を代表する若手哲学者である千葉雅也氏もその一人である。しかし、マルクス・ガブリエルの新実在論は、三つの観点から批判されうる。

第一点は、他者論が抜け落ちている哲学であることである。これは、唯一者あるいは単独者の置かれている場所は、そもそも限定された意味の場を越えており、真無限を想定せざるを得ないという観点からの批判である。単独者とは、世界に一つしか存在しない存在であり、この性、個別性とも呼ばれる。例えば、この私はこの私であり、どんな存在とも異なる単独者である。また、あなたと呼ばれる存在、すなわち他者も同様であり、取り替えが効かない唯一の存在である。この私という単独者や他者が置かれている場所こそ、いかなる限定も超えた真無限としての世界である。この議論は、柄谷行人の探究によって、議論が尽くされている。柄谷行人は、単独者が置かれている外のない世界をスピノザの無限として捉え、肯定的に捉えている。そしてまた、他者論の観点からは、限定された意味の場所には決して他者の存在は立ち現れることはない。他者は、あらゆる意味を超える存在であり、他者が立ち現れるは場所こそが、マルクス・ガブリエルが否定する全てを包括する場所としての世界=真無限である。こう考えると、マルクス・ガブリエルの哲学からは、他者論はすっぽりと抜け落ちていることがわかる。彼の哲学は、レヴィナスの他者論に到達できない哲学である。実に、マルクス・ガブリエルが否定する、全てを包括する場所としての無限定な世界=世界の無限性を前提しないと、単独者や他者の存在はあり得なくなってしまうわけである。裏を返せば、マルクス・ガブリエルのいう意味の場に立ち現れる存在は、全て取り替えが効く一般者にしかすぎず、単独者や他者の存在の否定となってしまう。新実在論は、世界の無限性を前提とする哲学とは、対立してしまうのである。新実在論においては、レヴィナスが指摘する全体性と無限性の根本的区別がなされずに議論されており、世界を全体性としてのみ捉え、無限性を肯定的に捉えようとしなかったところに問題がある。

第二点は、場所=関係と場所に置かれている者=関係項との区別を混同していることである。本質的な誤謬としては、関係項と関係の区別ができていないことをあげることができる。言い換えれば、存在者と場所の区別である。存在しているのは存在者の方であり、それが置かれている場所は存在者ではないので、場所そのものは、そもそも存在しているかどうかと問うこと自体がカテゴリーの混同となる。はなから世界が存在しているかどうかと問うこと自体がナンセンスである。言葉の上では主語化して語るようなかたちはとることができるが、本質的には関係項=「もの」ではない関係=場所としての世界を主語化し、その存在を問うことはできないのである。端的に、実体論的には、場所は、スペースであり、主体ではなく、主語化できない。これは、「もの」と「こと」との区別と同じである。

第三点は、世界がつながってないと考えている過ちである。基本、全てを包括する場所としての世界そのものを否定し、世界はつながっていない、という哲学的立場をとっている。これは、千葉氏の切断論と同種の思想である。つながっているものとつながっていないものが混在すると言った方が正確かもしれないが、少なくとも一切が一切と関係するという関係主義の立場をとらない。仏教の縁起の法則やモナド論のように、どんなちっぽけな一つの存在でも、世界に一つしかない唯一の存在であり、根源的には世界の全ての存在とつながっており、それ故に一切の存在が尊いとする思想とは鋭く対立する。世界は、無数の存在者と存在者の関係から出来ており、つながっているのである。ちなみに、無関係それ自体も、互いに無視して影響を与えないという関係、すなわち無関係な存在に影響を与える可能性が制限されている関係である。世界には、関係に置かれていない存在は存在しない。どのような存在であれ、関係しているからこそ、認識でき、働きかけることができるのである。


 次に、以上のような三つの欠点があるものの、私なりの解釈を加えて、マルクス・ガブリエルの新実在論の画期的なところを述べたい。 

 マルクス・ガブリエルは、科学的宇宙論と構築主義を絶対化することを批判している。科学的宇宙論は、物質的世界という場所に立ち現れる存在のみが実存するという独断に走っており、それ以外の場に立ち現れる存在を否定する。

 しかし、例えば、社会の存在は、物理的世界の場所には立ち現れないが、人々のコミュニケーションという場所において立ち現れる。心の存在も、意識活動という場に立ち現れる。また、神は、同じ宗教の信者同士のコミュニケーションにおいて立ち現れる。ドラゴンという架空の生物も、物語という場所には立ち現れる。場所を限定してやることで、あらゆる存在が実在することができるのである。つまり、物質的存在のみが実存するのではなく、対等の権利を持って、精神的存在、社会的存在も、実在するのである。物質的存在という空間を占める存在者のみが存在するのなら、精神的存在、社会的存在、宗教的存在、芸術的存在は全て否定されることになる。要するに、物理宇宙に置かれている存在を特権化しないところに、マルクス・ガブリエルの新実在論の革新的なところがあり、この点は私も大いに賛成である。一つの存在がどんな意味の場所に置かれているのか把握することが大切だとも言えるのである。

 さらに、全てが脳や心が生み出した幻想であると考える構築主義についても批判している。私なりに解釈すると、構築主義自体が構築されたものなら、その正当性の根拠を失い、成り立たないという自己言及のパラドックスが起こり、構築主義を絶対化することはできないというわけである。新実在論においては、認識作用においては、対象に合致する認識も恣意的な認識も、ともにあり得ると考えている。構築主義には、この区別はなく、全て恣意的な認識しかないと考えている。新実在論は、構築主義のような立場を取らず、恣意的な認識は、対象の在り方に即してではなく、恣意的に対象の部分を切り取って認識しているだけであると考えているようである。新実在論は、対象の事実性に基づいて、認識は得られるという点において、素朴実在論に近いと言える。ただ、物理的存在だけではなく、精神的存在、社会的存在、宗教的存在、芸術的存在も素朴に実在するという立場である。

 このように、マルクス・ガブリエルの新実在論は、何でもかんでも、実在すると考えているので、スピリチュアルな存在も実在すると認めることになり、科学主義者やエビデンス主義者とは対立すると考えられる。


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by merca | 2025-05-31 22:46 | 理論 | Comments(0)
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