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共同性の必要性

 宮台社会学を読み出したころ、もう8年以上も前になると記憶しているが、宮台氏がまだまったり革命を唱え保守主義者に転向する前に、西部邁という保守的相対主義者と対立していたことを覚えている。その際、私は、宮台の成熟社会論の批評として次のようなメモ書きをしていた。今では、過剰流動性に抗するために、生活世界の確保による感情的安定が必要だと、宮台氏は唱えているが、当時にはそのような気配が無く、私は西部邁のほうに現実的なものを感じていたのである。それが私の下のメモ書きである。

    社会システムの前提としての共同体(あるいは生活世界)
       個人の主体性,自発性について
 
 後期近代産業社会つまり成熟社会に適合的な人間の生き方について,自己責任,自己選択による自立型自尊心の獲得という処方箋を宮台真司は提出している。何ら超越的な道徳的規範がなくても,社会システムは個々人の自己選択の総和によって秩序が保たれるという。片や,西部邁は,民主主義,自由と平等,個人主義,主体性,自己責任,自己選択といったものが成立するためには,個々人がバラバラであるのではなく最低限の共同体あるいは共同性が必要であると主張してやまない。その最低限の共同性のことを伝統と彼は呼んでいる。伝統なきところに民主主義も主体性もないというのが,西部氏の言わんとするところである。もう少しいうと近代社会とそのユニットである主体的な個人は,共同体的なるものの上に成り立っているということである。しかるに,宮台真司の説は,そのような最低限の共同性としての伝統がなくても,近代成熟社会(社会システム)とそのユニットとしての主体的個人は可能であると考えている。この見解の相違について考察を加えたい。

・現実の集団運営の観察不足
 少しでも学校教育に携わったことのある者なら生徒の主体性や自発性を引き出そうと努力してきたものと思われる。しかして,大抵の教師なら手放しで生徒が主体性や自発性を発揮することなど有り得ないことを実感しているはずである。生徒は無自覚かもしれないが,教師が何らかの手心を加えてはじめて自発的に生徒は学園祭や体育祭などを自主運営しだす。つまり,教師はバラバラな生徒間に何らかの連帯意識つまり共同性を作り上げ,その上ではじめて生徒は自発的に行動できるわけである。学級運営に悪戦苦闘している教師は常にこの問題に頭を悩ましている。この事例は,まさしくバラバラな個々人には主体性も自己責任もないということを物語っている。
 このような事例は,ただ学校教育のみならず,ボランティア運営に携わっている者なら誰しもが感じていることである。ボランティアは個々の自発的行動で運営が支えられるものと思われがちであるが,しかしそうなるまでには手心が必要である。ボランティア会員どうしに最低限の連帯性,共同性,相互の透明性がなければ,不可能である。普通,ボランティアリーダーやその周辺がその連帯性,共同性,相互の透明性をつくりあげることになる。それがうまくいくと,ボランティア会員は指示なしでも自発的に動くようになるようである。その結果,はじめてその場での主体的な個人が形成されることになる。社会全体の運営も同じであり,社会システムがうまく機能するためには,成員どうしの最低限の共同性が必要である。それが義務教育の役割でもある。この共同性や連帯性を無視して,自発的で自己選択のできる個人や自立型自尊心は存在し得ない。このような実践的な団体運営の観察が致命的に宮台真司の説には抜けている。従って,宮台の処方箋の「目的」は正しいが,悲しいかな,その目的に至る前提を欠いているために実現できないものと思われる。
by merca | 2007-01-01 11:00 | Trackback | Comments(0)
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