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ニセ科学の社会学

 
 「ニセ科学の社会学」なるものが成立つとしたら、物理的リアリティに立脚して記述するのではなく、やはり社会的リアリティの立場から記述することになる。その際、科学に対しては、成熟社会におけるイデオロギー機能を観察することになる。しかし、それでは不十分であり、科学的根拠がない他の知識に対して、人々がどの程度、信じているのか調査する必要も出てくる。占いや前世などのスピリチュアルな知識を信じる度合いである。
 ある統計意識調査にもあるが、特定の宗教は信じていないが、スピリチュアルな言説を信じる人の割合も案外多いらしい。日本の場合、科学者であっても、神社にお参りにいき、神仏を信仰する人はいくらでもいる。科学と信仰の住み分けは、なされていると思う。
 矛盾する知識やリアリティが共存する理由は、きちんと物事を区別しているからである。呪いや占いなどのスピリチュアルな言説を相対化して受容する人々の態度を物語モードと呼びたい。
 物語モードは、そういうことが本当にあったらいいなという願望、社会的には特に悪いことではないという意識である。嘘かも知れないが、それによって社会生活や社交がうまくいけばあえていいじゃないか、という感覚である。御盆の法事の時に、先祖が帰ってきたという住職の言説に文句をつける野暮な社会不適応者はあまりいないのである。
 水伝に科学的根拠がないのをわかりつつも、肯定する教師は、このような意識だと思う。「裸の王様」の大人である。嘘も方便だという立場でもある。ターミナルケアの分野であるが、スピリチュアルケア学会なども、アカデミックな立場から設立されているくらいである。
 これに対して、ニセ科学批判者は、「裸の王様」の子供である。真理の言葉でもって、大人を責める。真理でないものは道徳的にも悪であるという具合に受けとめられるおそれがある。真理=認識と善悪=価値の問題を区別して思考する物語モードをもつ大衆からすると、その怒りを理解することができない。
 水伝を真理として受けとめるのは社会病理かもしれないが、水伝を物語として受けとめるのは社会病理ではない。しかし、道徳の根拠を自然界の物理的リアリティに求めようとする水伝の思考は、物語モード自体も破壊する不健全な思考である。この点は、批判されてしかるべきだと思う。

 注意 
 ちなみに近代社会に入って、物理的リアリティと社会的リアリティは分化した。それ以前は、自然現象や人倫を越えた法則(神)に道徳の根拠を求める傾向があった。
by merca | 2007-09-03 17:32 | 社会分析
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