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ニセ科学批判の意味空間

 ニセ科学と呼ばれる対象について数人にインタビューしてみた。水伝などそもそも知らない人が多くいた。血液型性格判断はよく知られているが占いとして分別している人もいた。マイナスイオンについても知らない人がいた。個々のニセ科学によって知名度が全く異なる。ニセ科学について、社会調査のアンケート項目をつくる場合、前提として(知っている/知らない)という項目が必要である。またどのレベルまで知っていることを本当に知っていると定義するのか困難である。こういう事実も予備調査としてのインタビュー調査(質的調査・事例調査)の段階でわかってくるわけである。
 しかし、よく考えてみると、知名度がないニセ科学は、社会統計調査そのものがあまり意味をなさないおそれがある。また、知っている人だけを対象にすると、それ自体サンプリングに偏りができる。これこそ社会調査の専門的常識である。あくまでも無作為抽出された標本集団でないといけない。そう考えると、「多くの人が科学だと誤解している」という命題を検証するのではなく、「多くの人が科学だと誤解しうる可能性がある」という命題を検証したほうが適切だと思えてくる。
 そこで、対象に科学を装おうという効果が本当にあるのかどうかを測定することになるが、この場合、大がかりな社会統計調査よりも、心理学的な実験のほうがむいているかもしれない。例えば、一定の人数の被験者を集め、対象(非科学)について説明を受け、対象を科学と思ったかどうか聞くというかたちである。社会心理学や集団力学でよく行われるタイプの実験である。
 さらに、人によって科学の定義が異なるおそれもある。単に科学者による発言や発明品を全て科学と思う人もおれば、ニセ科学批判者のように科学哲学的な公準で厳密に考える人もいる。このように、もし人々の科学観が多様ならば、非科学が科学を装おうことに何の価値や意味があるのかと思う。
 物理的リアリティ(対象と認識の一致)の世界では、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという前提において、はじめて装おうことが意味をもつと考えられる。
 ニセ科学は、やはり科学が唯一絶対的な正しい真理であるという暗黙の前提に支えられているような気がする。そして、ニセ科学批判も、科学の立場からなされるのならば、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという暗黙の前提をもつことになる。「科学が唯一絶対的な正しい真理である」という信念を共有する者どうしの熱い議論である。ところで、科学以外の立場から、ニセ科学を批判する視座はあまり見かけたことがない。
 ニセ科学批判者たちが、なぜそんなに熱くニセ科学やニセ科学批判批判を批判するのか、その理由が釈然としないもどかしさを感じる。科学だけが正しいとは限らないという私のような相対的な認識をもっている者には不思議にうつるのである。科学が唯一絶対的な正しい真理と堂々と思っているから熱く議論するのであると正直に言えばいいと思う。ポストモダンが生み出した懐疑論者やニヒリストたちの前で、科学は文化を越えた唯一絶対的な真理であると単純にいうのは、恥ずかしいと思っているのかと思う。

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by merca | 2008-01-11 00:40 | 社会分析
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