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自己言及的ラベリング


 ラベリング論(社会学理論)によるニセ科学批判の考察
  
 実は、多くの場合、他者に対するレッテル付与は、自己ラベリングを伴う。レッテル付与は、二者間の相互作用だけではなく、それを見ている観客の視線こそがポイントなのである。ゴフマンの演劇論の視点を入れることで、ラベリング論は完成する。
 
 例えば、他者の不正や犯罪を摘発する者は正義の味方だと思われる。誰かを悪人と呼ぶためには、自分は善悪を弁えている善人であるという自己レッテルを伴うことになる。また、他人の嘘を摘発する者は、自身は真理を所有している者だと宣言していることになる。これを自己言及的ラベリングという。つまり、他者へのレッテル付与が同時に自身へのラベリングを伴わざるを得なくなる現象である。
 重要なことは、他者言及と自己言及が同時に発生することを観察できる立ち位置は、二者を見ている観客の立場であるということである。この観客の視線は、社会状況や世間と置き換えることができる。言語ゲームは、当事者どうしの相互作用だけではなく、それを観察する観客によって支えられているのである。このことを意識して言語ゲームをするかどうかで、色々と違った結果が出てくる。観客の視線をフィードバックして発言していく当事者と、そうでない当事者は、おのずと違ってくる。

 ラベリング論的には、ニセ科学批判者によるラベリング行為が、自己言及的ラベリングの一種であることは手に取るようにわかる。つまり、批判対象にニセ科学のレッテルを張ることができるのは、当然、自説がニセと本当の区別を弁える基準を所有している真なる科学であるという自己レッテルを伴う。ある意味、これは(真/偽)というコードに準拠する学システム一般がかかえる普遍的な問題である。(自己言及のパラドックス)
  原理的に当事者たるニセ科学批判者には盲点になって気づかないので仕方ないが、観客=世間の人々はそのように観察するのではないかと思う。他者を否定し、自己が本物であると宣言しいていると観察されるのは論理的に当然なのであり、当事者であるニセ科学批判者の主観的意識とは別に、ニセ科学批判者は自説を絶対化している思われてしまうのである。その自説たるものが科学的であればあるほど、科学を絶対化していると思われるのである。そのようなリスクを背負って、ニセ科学を批判しているかどうかはわからない。確かに主観的レベルでは、ニセ科学批判者は絶対化はしていないというのは本当かもしれないが、まさにそれに気づかないことが盲点なのである。ニセ科学批判を見て、最初に科学を絶対化していると反応するのは、ある意味、論理的には正常である。やはりそのように初っ端は反応している方がいるようである。

  追加
 自説を絶対化することで、人々から非難されるとは限らない。もし世間の人々のほうも科学を絶対的に信じているのなら、ニセ科学批判者は妥当で正しいと思われ、非難されることはないのである。その意味で、絶対化していると言われても臆することはない。 

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by merca | 2008-02-24 17:13 | ニセ科学批判批判 | Trackback | Comments(0)
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