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ニセ科学批判の恣意的運用の危険性

 ラベリング論で問題にされるのは、レッテルを貼る側に基準がなく、あるいは仮に基準があっても曖昧で解釈次第であり、ラベリングが恣意的に運用されることである。社会的強者が弱者に対して恣意的にレッテルを貼るという危険性を問題視した社会学理論である。裁判官の所属階層と同じ社会階層に属する少年は、そうでない少年よりも、同じ非行を犯しても、少年審判で軽い処分しか受けないなど、セレクティブサンクションとして問題化されている。たとえ法律という基準があっても実は解釈次第であり、このように恣意的な運用がなされることがある。

 社会学的に見て、ニセ科学批判は、レッテルを貼る側の基準が実に曖昧であり、恣意的に運用されるおそれが非常に大きい。まず、非科学と科学を区別する基準もしっかりと人々に共有されているわけでない。科学哲学論争で科学とは何かという究極的結論は出ていない。さらに、科学を装うというのは、どのようなことを指すのか、それ自体共有されておらず、完全に恣意的であり、ニセ科学批判者の主観に委ねられている。また、法的に言うと、「科学」という名称そのものの特許申請は存在しえず、科学という名称の占有権は誰にもない。法システムから観察すると、誰が科学と名乗ろうが違法性はない。その意味で、ニセ科学批判者は、「科学」という名称の使用権利が自己のものだけと勘違いをしており、傲慢なのである。

 おそらく、人々が科学を共有しているというのは嘘であり、科学という名称と科学は正しいという観念だけが共有されているレベルである。言い換えれば解釈次第の世界であり、ニセ科学批判者の恣意性・主観性によってレッテルが貼られる危険性が高い。   
 逆に言うと、人々の間に共通の科学の基準とニセ科学の定義が合意の上で共有されているという前提においてのみ、社会的にニセ科学批判は正当化される。

 現状では、ニセ科学批判は、ニセ科学批判者の恣意性・主観性に委ねられており、解釈次第である。いや本当に恣意性・主観性をどのように克服するのか知りたいものである。恣意性・主観性のチェックがないまま、レッテルを貼られると、魔女狩りと同じになってしまう。これを何とか防ぎ、客観性を確保できないものかと思う次第である。共有されていない曖昧な基準や定義に基づく現状のニセ科学批判の社会的正当性は、どこに根拠があるのか知りたい。このままでは、ニセ科学批判の悪用も十分考えられるのである。


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by merca | 2008-02-28 23:07 | ニセ科学批判批判
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