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「信じぬ者は救われる」書評1

 ニセ科学批判者の菊池教授と香山リカの対談「信じぬ者は救われる」を読んでみた。
 テーマについていうと、ニセ科学に対する批判というよりも、基本的にそれを信じる大衆批判だと感じた。「なぜニセ科学を人々は安易に信じるのか」という大衆への疑問・批判・失望である。ニセ科学を信じる理由も科学を信じる理由も、人々にとって同一だとすると、それは社会学が扱い慣れてきた問題である。物事に対する信じやすさの問題は、自明なものを全て疑うという社会学の伝統においては、繰返して論じられてきたことである。
 対談なので、掘りさげ方が浅いという印象は受けるが、押さえておくべきことを発見できた。ちなみに、後藤氏からは、香山リカは俗流若者論者として批判されている。私は、社会構築主義の立場から、後藤氏のこの見解は支持している。
ニセ科学批判者と俗流若者論者の対談ということで、非常に興味深い!!

   (事実主義)  
 菊池教授は、科学的知識を客観的事実と見なしている。ニセ科学のみならず、スピリチュアルを批判する最終的根拠も全てそこにあることがわかった。例えば、前世は客観的事実ではない虚構であるから批判するのである。客観的事実という言葉に迷わされてはならない。基本的に、客観的事実とは、対象と認識が一致した真理のことを意味している。菊池教授には、客観的事実それ自体も共同主観によって社会的に構成されたものであるという視点が全くないようである。事実は事実として厳然と存在しているという信念があるようであり、科学が事実を知る有効な手段となるというわけだと思う。この場合、信じることの定義は、それを客観的事実だと思うこととなる。

 2点ほど批判すべき点がある。
 客観的事実のみしか信じる対象にしないとしたら、いかにも浅薄である。人は未来を信じる。スピリチュアルな人や信仰のある人でなくても、事実でないとわかっている対象を信じることがある。例えば、約束である。人と約束すると、その人が本当に約束を遂行するものだと信じて社会は回っている。事実だけを信じる対象にすると、社会は壊れる。規範・役割というかたちで、客観的事実でなくても、信じるのである。また、現実には存在しない理想や目的を人は信じる。

 もう一つ言うなら、科学それ自体に疑いの目をむける視点が欠落しているので、説得力がない。信じやすいと大衆を非難するのはよいが、自らは科学的思考方法を信じているわけであり、なぜ科学的思考方法を信じるようになったのか明かさないと説得力をもたない。大衆とは異なる理由で、科学的思考方法を信じているということだと思うが、いま一つわからない。ニセ科学を信じる人たちから、「あんただって科学を信じているじゃないか!」と言い返されたら、終わりである。

   さらに、以下の視点についても、随時、評論していきたい。
 ・科学に生きる意味を求める人々
 ・嘘でも信じたいという人の存在
 ・二分法的思考がニセ科学問題のメタ問題
 ・スピリチュアルとニセ科学との同一性


 

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by merca | 2008-03-09 11:56 | 社会分析
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