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構造主義科学の信念対立


 同じ科学といっても、構造主義科学(あるいは構造構成主義も含む)の科学観は、ニセ科学批判者である田崎氏の科学観の対極をなす。観察対象が(実在する/実在しない)という区別から観察すると、田崎氏の科学観は実在するをマークしており、構造主義科学は実在しないをマークしている。(厳密に言うと、構造主義科学は外部対象が実在するしないにかかわらず、科学は成立つと考える。) 自然界に普遍の因果法則という同一性が実在すると信じる田崎氏と、そのような同一性は人々の頭の中にある観念あるいは言葉の使用法の同一性としてしかあり得ないという構造主義科学とは、相容れない。
 これは、それ自体構造構成主義のいう信念対立ではないかと思う。マルクス主義のコードである(存在/意識)という区別から観察するともっとわかりやすい。意識するしないにかかわらず、人間(意識)を外から拘束する存在があると前提するのがマルクス主義である。意識によっては構成されない、つくられざるものである。そのようなものを自然と呼ぶと、不動の自然は科学の対象となり、田崎氏的な科学観の前提をなす。マルクス主義においては、社会にもそのような法則があり、それが史的唯物論であり、社会は必然的に共産主義に発展すると考えられた。
 確かに、科学は本質的に自然界にある法則を見つけだす活動であるという科学観は、科学者のロマンを掻き立てる、崇高な動機付けである。自然界は偶然のデタラメの世界であり、法則などは存在しないという信念ではやっていけないだろう。因果法則の同一性の根拠が、人間の頭の中だけにあるのか、自然界という外部にあるのかによって、科学観は異なる。もし脳科学者が指摘するように、人間の頭の中だけにあると考えると、物語と事実の差異は消滅し、究極的に宗教も科学も区別がなくなることになる。
 世界は偶然か必然かということは、カントが指摘したアンチノミーであり、人智を越えていると哲学的には思われている。世界が偶然ならば、田崎氏が理想とする科学は成立たない。一方、構造主義科学は、世界が実在するかどうかを括弧に括ることで、世界が偶然か必然かにかかわらず、科学として成立つと主張している。しかしそれではもはや科学は世界を記述する方法ではなくなり、対象と認識の一致という自然科学が準拠する物理的リアリティは無に等しくなる。ここから、迷信も科学も同じであるという発想が出てくる。ニセ科学批判者などは、それを嫌うわけである。こうなると、科学もニセ科学も、同じになるからである。極端な相対主義として非難の対象となる。ところが、その相対主義を出発的・大前提とし、諸哲学や諸科学を統合しようとするのが、構造構成主義である。
 そこで、私はカントを否定し、こう考える。世界は複雑であり、偶然な部分と必然な部分が混在しており、必然な部分は科学が観察し、偶然な部分は宗教が対処するというかたちで考えたほうが現実的であると思われる。また、必然を偶然へと転換し、偶然を必然へと転化する営みが、人間の自由意思のはたらきだと思う次第である。
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by merca | 2008-04-19 09:07 | 理論
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