2007年 04月 22日 ( 3 )

真近代社会


 久々にシステム論ではなく、弁証法で近代社会を記述してみたい。
 
 前期近代社会は、包摂型社会であり、人々を同一化・包摂化していく運動として記述できる。これを包摂の弁証法と呼びたい。
 後期近代社会は、排除型社会であり、人々を差異化・排除化していく運動として記述できる。これを排除の弁証法と呼びたい。
 さらに、前期近代社会と後期近代社会の止揚として、同一化・包摂化と差異化・排除化を同時に行っていく運動として記述できる社会を想定できる。これを循環型社会と呼び、近代社会の構造的完成形態たる真近代社会と呼びたい。

 後期近代社会たるポストモダン社会は、そのうち終焉を告げると予言しておこう。
 
 真近代社会の登場によって、多様化や流動性は問題でなくなる。そもそも多様化は前期近代社会の同一化・包摂化の対立物であり、その反動として起った。大きな物語の凋落を意味する。また、流動性は、共同体的固定性の反動として起った。多様化や流動性は前期近代社会の価値観からの解放を意味する。しかし、今度は過剰な多様化と過剰な流動性からの解放を目指す運動が必要となる。もはや前期近代社会にはもどれない今、多様性と同一性、固定性と流動性の四つのファクターを止揚する社会が求められる。それが真近代社会である。

 真近代社会を貫通する同時的弁証法を提示しておきたい。
 その範囲は可能態としては世界すべてを含むが、その都度の現実態としてはやはり一定の境界線をもつ。何ものかを境界線の内に入れると同時に何ものかを外に出すことで、境界性は常に変動する。同一化と差異化、包摂化と排除化を同時に行うのである。
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by merca | 2007-04-22 23:09 | 理論 | Comments(0)

エリート論批判

 後期近代社会を排除型社会と位置付ける学者が出てきた。ジョック・ヤングである。後期近代社会論は色々とあるが、これは面白いと思った。
 
 ジョック・ヤングの「排除型社会」という書物が翻訳された。宮台一派が過剰流動性による感情的安心感の欠如を不安の根本原因として捉えるのとは少し違った視点がそこにはあった。もちろん、重なる部分も多い。
 
 さて、近代社会前期は包摂型社会であり、政治、教育、経済、法律の全ての分野において、人々を同化してきたという。大きな物語が文化的目標として機能していた時代である。ところが、消費社会化することで、価値観が多様化し、文化的目標が分散し、同化する目標を失うと、経済的不安や存在論的不安などから、排除を帰結するようになった。後期近代社会論としては、床屋談義に終始しがちなポストモダン社会論よりも、はるかにリアリティがある。
 例えば、日本社会でも、教育の分野において、エリート教育が叫ばれている。誰でも頑張ればできるという努力主義によって落ちこぼれを救いあげようとする教師も随分減ってきたと思うのである。落ちこぼれは切り捨てて、エリートの力を伸ばすることに教育政策を注ぎ込むほうが合理的だというわけである。また、刑事政策においては、犯罪者は社会復帰させるよりも厳罰化し隔離したほうがいいということになる。
 
 エリートがこの排除型社会をいかに舵取りしていくのか、そこに宮台氏の関心があるようである。しかし、エリート/非エリートの区別基準そのものがすでに排除型社会の産物であり、包摂型社会に後戻りすることはできないかもしれない。エリートはエリートであるかぎり、エリート階層の価値観しか体現できないおそれがある。昔は、学歴を身につけるか、商売で成功するなどして、下層階層からエリートに移動した人物が多くおり、官僚になったり政治家になった。排除型社会では、社会階層の移動がなくなる。包摂型社会では、エリートも非エリートも、同じ文化的目標をもつことができたが、希望格差社会論で指摘されているように、教育政策の変化のためか、子供達に文化的目標も平等に内面化されていない。

 さて、包摂型社会から排除型社会という社会変動論の解釈であるが、社会が飽和点に達したという議論も考えられる。社会が人々を同化・包摂する近代化の運動が飽和点に達した時、逆向きの運動として排除に動くというわけである。しかし、今後、排除ばかりしていては社会が回らなくなるので、包摂のほうに向かうことも考えられる。ちょうど、景気の変動と似ている。社会システムは、経済システムが不景気と景気を繰返すように、排除と包摂も繰返す。この振幅をコントロールするのが、社会工学を身に付けたエリートかどうかはわからないが・・・。
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by merca | 2007-04-22 13:15 | 社会分析 | Comments(1)

恣意性の克服

 宮台氏の恣意性についての考えに、システム論的思考の限界がみてとれる。恣意的に引かれた(我々/我々以外)という区別は常に動いており、それ自体変動的であり、固定的でない。システム論では、この点を捉え損なっている。
 
 世界宗教や世界帝国は、境界線の流動性を利用している。世界宗教や世界帝国においては、全ての人が可能的に我々であり、そのような外部を取り込む運動として存立している。万人が可能的帝国民あるいは可能的信者である。特に、世界宗教は人を選ばない。どのような貧民でも、受け入れる。そのようにして、世界宗教は社会=システムを越えてきた。これは一つの弁証法である。可能性レベルでは内外の区別がない普遍性(必然性)を保持し、現実性レベルでは内外の区別がある特殊性(偶然性あるいは恣意性)を保持する。普遍性と特殊性の弁証法である。このような作法によって、システム論で問題になっている事柄は乗り越えられる。ただし、対立物を外につくって取り込んでいく、ヘーゲルの段階的弁証法とは異なる。同時的弁証法である。

 (我々/我々以外)という境界が固定化していると捉えるシステム論においては、再参入によってシステムは存続しようとするが、弁証法は別の仕方で自己を維持しようとするわけである。

 
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by merca | 2007-04-22 07:28 | 理論 | Comments(0)