2008年 02月 24日 ( 3 )

ニセ科学批判の潜在的機能

  科学を信じると言った場合、人々は本当に科学を信じているのだろうか?
  (名称/概念)という区別に準拠して観察してみたい。
 
 答えは否と思う。人々は、科学の実質的概念=科学の公準を正確に把握した上で、個々の科学的言説や科学技術を信じているわけではないと思う。人々は、科学という名称を信じているだけなのであり、科学の実質的概念内容を信じているわけではない。というか科学の概念を正確に知らない。科学あるいは科学的根拠という名称=レッテルに人々は反応しているのである。レッテルが重要なのはそのためである。
 さらに、科学という名称=レッテルは、「正しい知識=真理」という意味内容と結合している。科学は正しいから、人々は科学を信じるのである。もし科学が正しくないと思うのなら、人々は科学を信じることはないだろう。また、真理の追究を動機付けとしていない科学者はいないのではないかと思う。自然に対する正しい知識が欲しいと思うから研究するわけである。
 いずれにしろ、「科学=真理、ニセ科学=虚偽」という構造図式となり、ニセ科学のレッテルを貼られると、人々はニセ科学は正しくないから信じないということになる。構造主義的には、概念内容よりも、名称間の差異構造の対応関係が重要になってくる。とにかく、科学と正しさ=真理性という概念を分離し、議論することはできないと思う次第である。もし科学が正しくなければ、ニセ科学が自らを科学と装う必要はないからである。科学は、人々の間で正しさを象徴する記号として機能しているのである。

   (ニセ科学批判の潜在的機能)
  しかし、こうなれば、ニセ科学のみを偽とすることで、非科学は全て正しくないという構図に陥るよりも健全だと言える。非科学である宗教や伝統的知識に対する攻撃に向かう力がニセ科学批判に集中することになるからである。科学という学システムは、ニセ科学批判を通して、自己の外にニセ科学をつくりだすことで、非科学一般を破壊する力がそがれる。ニセ科学批判は、科学から宗教や文化的伝統を守る社会的な装置として機能しうる可能性があるのである。詳しく言うと、非科学に対しては、科学が自己の基本コードである(真/偽)を適用しないという制御がはたらくわけである。その代わりに、科学を名乗った途端、たちまち科学システムは、ニセ科学批判によって自己にとって異物かどうか判断し、(包摂/排除)の選択をするわけである。
 
 ここで、逆説的であるが、ニセ科学批判には、非科学一般=宗教や文化的伝統に対する科学による破壊行為を制御する社会的装置として機能することを願うのである。ニセ科学批判は、科学システムが絶対化され、宗教システム、政治システム、教育システム、文化システムを侵食することを制御するシステム内部装置なのである。科学システムは、この制御装置によって、科学という名称のついたものしか攻撃できなくなり、科学が暴走することがなくなるのでるある。科学はニセ科学のみを批判すればよいわけであり、宗教やスピリチュアリズムや文化的伝統を批判する必要はなくなるのである。

    参考
 ニセ科学批判をする科学者たちが、ニセ科学だけをターゲットにするか、それとも非科学一般(宗教、スピリチュアリズム、文化的伝統、人文思想など)にも手を広げるか興味深いところである。
  
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 香山リカ批判 


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by merca | 2008-02-24 18:59 | ニセ科学批判批判 | Comments(6)

自己言及的ラベリング


 ラベリング論(社会学理論)によるニセ科学批判の考察
  
 実は、多くの場合、他者に対するレッテル付与は、自己ラベリングを伴う。レッテル付与は、二者間の相互作用だけではなく、それを見ている観客の視線こそがポイントなのである。ゴフマンの演劇論の視点を入れることで、ラベリング論は完成する。
 
 例えば、他者の不正や犯罪を摘発する者は正義の味方だと思われる。誰かを悪人と呼ぶためには、自分は善悪を弁えている善人であるという自己レッテルを伴うことになる。また、他人の嘘を摘発する者は、自身は真理を所有している者だと宣言していることになる。これを自己言及的ラベリングという。つまり、他者へのレッテル付与が同時に自身へのラベリングを伴わざるを得なくなる現象である。
 重要なことは、他者言及と自己言及が同時に発生することを観察できる立ち位置は、二者を見ている観客の立場であるということである。この観客の視線は、社会状況や世間と置き換えることができる。言語ゲームは、当事者どうしの相互作用だけではなく、それを観察する観客によって支えられているのである。このことを意識して言語ゲームをするかどうかで、色々と違った結果が出てくる。観客の視線をフィードバックして発言していく当事者と、そうでない当事者は、おのずと違ってくる。

 ラベリング論的には、ニセ科学批判者によるラベリング行為が、自己言及的ラベリングの一種であることは手に取るようにわかる。つまり、批判対象にニセ科学のレッテルを張ることができるのは、当然、自説がニセと本当の区別を弁える基準を所有している真なる科学であるという自己レッテルを伴う。ある意味、これは(真/偽)というコードに準拠する学システム一般がかかえる普遍的な問題である。(自己言及のパラドックス)
  原理的に当事者たるニセ科学批判者には盲点になって気づかないので仕方ないが、観客=世間の人々はそのように観察するのではないかと思う。他者を否定し、自己が本物であると宣言しいていると観察されるのは論理的に当然なのであり、当事者であるニセ科学批判者の主観的意識とは別に、ニセ科学批判者は自説を絶対化している思われてしまうのである。その自説たるものが科学的であればあるほど、科学を絶対化していると思われるのである。そのようなリスクを背負って、ニセ科学を批判しているかどうかはわからない。確かに主観的レベルでは、ニセ科学批判者は絶対化はしていないというのは本当かもしれないが、まさにそれに気づかないことが盲点なのである。ニセ科学批判を見て、最初に科学を絶対化していると反応するのは、ある意味、論理的には正常である。やはりそのように初っ端は反応している方がいるようである。

  追加
 自説を絶対化することで、人々から非難されるとは限らない。もし世間の人々のほうも科学を絶対的に信じているのなら、ニセ科学批判者は妥当で正しいと思われ、非難されることはないのである。その意味で、絶対化していると言われても臆することはない。 

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by merca | 2008-02-24 17:13 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)

(合理性/非合理性)

社会学者マックス・ヴェーバーは、近代化を合理化の過程であると喝破した。合理性あるいは合理主義とは、目的にとって最短の手段を選択するということである。近代社会においては、合理主義は、社会規範としても機能していることを述べておきたい。
 つまり、合理的に説明がつく現象や行為しか認めてはならないという社会規範である。合理的に説明がつかない現象や行為は、排除されるという規範である。
 例えば、ひと昔前には、丸狩りを男子生徒に強制する校則をもつ中学校があった。このような規則に対して、生徒や父兄たちは合理性がないと批判し、廃止を求めた。学校の風紀が乱れるという以外に説明しない学校は負けた。自分達が合理的に納得できない風習や規則に対しては受け入れるべきではないという市民的な道徳規範の勝利である。
 ちなみに、一方でプロ教師の会のように、どんな内容の規則であれ、規則それ自体に従うことが教育的効果があると考える立場もある。彼等は、人間にとって思い通りにならない不合理なことは世の中にいくらでも存在し、甘んじてそれを受けいれ、妥協する忍耐力こそが組織社会で生きていくために必要な社会的能力だと考えたわけである。
 プロ教師の会のこの立場は、一見、合理主義ではないように見えるが、実は合理主義の変種である。教育システムの目的に準拠したシステム合理性というものである。別名、社会学的啓蒙という。それに対して、校則の内容に関して非合理的で無意味であると観察する立場は、当事者による第一次観察であり、理性的啓蒙と言える。この二つの合理性のうち、理性的啓蒙にのみとどまって現象や行為を観察する時代は終焉したというのがポストモダン社会論である。社会学者マックス・ヴェーバーは、主意主義的立場から、行為の当事者の主観的意味を観察しており、近代社会における理性的啓蒙に焦点をあてたと言える。それはそれで価値がある。後期近代化社会では、単純な理性的啓蒙だけでは、不十分とするのが、システム論者であるルーマンなどの立場である。観察の観察である第2次観察を武器とし、その事象や行為にまつわるコミュニケーションをシステムの中で位置付けようとした。内容的には非合理な人々の行為も、システム論的観点からは十分に合理性を見い出すことも可能なのである。例えば、ニセ科学という内容的に非合理なものも、別の観点からは合理的であることは十分にあり得るのである。どちらのレベルの合理性を重視するかで、その人物が理性的啓蒙主義者か社会学的啓蒙主義者か選別できるのである。

   参考 
 自己言及のパラドックス
 「合理主義は、非合理である。」
 合理主義そのものに(合理性/非合理性)という区別を自己適用すると、たちまち合理主義はパラドックスを抱え、成立たなくなる。合理主義が本質的に前提とする目的-手段図式そのものが、手段であっても目的であっても、合理性は矛盾するからである。このようなパラドックスを回避・隠蔽するためには、別の区別で合理主義を観察する必要がある。それが社会学的啓蒙の立場である。
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by merca | 2008-02-24 12:30 | 理論 | Comments(0)