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2008年 12月 31日 ( 2 )

科学による客観的事実の独占化


 科学が存在する前から、人は自然に対する知識をもっていたわけであり、科学のみが客観的事実を独占するというのは、おかしな話である。
 例えば、河豚には毒があるとか、水を沸かすと蒸発するとか、種をまくことで穀物が生えてくるとか、数え上げれば切がない。また自然に対する知識には、本能というものもある。匂いや味で腐ったものを判別することもできる。近代化し科学が誕生する前から、人間は自然に対する客観的事実を知っていたのである。自然に対する客観的事実は科学の専売特許ではないことがわかる。科学的方法でしか客観的事実を得ることができないと考えたり、科学が一番よく客観的事実を見つけ出す方法であると考える人がいたら、それは一種のおごりである。
 科学という知識に人間が頼りだしたのは、近代社会に入ってからである。近代社会の仕組みと科学は平行している。社会学的には、科学を論じることは、近代化を論じることと本質的に同じである。近代化論の視点から観察すると、ニセ科学批判は、科学による客観的事実の独占化現象の一つなのである。

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by merca | 2008-12-31 16:54 | ニセ科学批判批判 | Trackback | Comments(2)

クオリアという観察(質/量)


 科学者·茂木健一郎が提唱するクオリア論は、微妙な立ち位置にある。ニセ科学批判者系のブロガーからあまりよく思われておらず、ニセ科学や擬似科学のレッテルを張られそうな雰囲気である。
 区別の論理から、クオリア論をコード分析すると、実は自然科学ないしは数理科学に対する第二次観察だと言える。つまり、自然科学ないしは数理科学は、(質/量)というメタコードに準拠しており、量をマークして構築された学問であるということである。一方、クオリアは、決して量には還元されない世界の一面を指していることになる。自然科学や数理科学は、クオリア論によって相対化される。質は量に還元されず、量は質に還元されない。
 ただし、ここで問題となるのは、クオリア論が実証性、反証性、客観性をもつかどうかである。クオリアは主観的感覚であり、客観化することができない。しかし、そうなると、量の世界は、数式で表現できる客観的世界であるが、質の世界は数式に還元することが不可能であり、実証性、反証性、客観性を持ち得ないという理屈で、クオリア論を擬似科学に押し込める人たちも出てくると考えられる。
 システム論から観察すると、(質/量)というコードで事物を観察する当のクオリア論は、(意味=言語世界/物理世界)というメタコードに準拠しており、やはり物理世界の学問としての域はでない。クオリアは意味システムではない。意味システムとしての意識システムや社会システムとは異なる次元である。
 とは言いつつも、物理世界が量としてだけではなく、質として観察できるという発想は、有意味であり、期待したい。
 
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by merca | 2008-12-31 16:27 | ニセ科学批判批判 | Trackback | Comments(0)