ものの見方や価値観は個人や社会によって多様であり、絶対的な真理や善悪は存在しないという思想がある。それを相対主義と言う。多くの人々、特に社会思想や哲学に興味がある学者になる知的若者たちは、そのように考える。そして、この相対主義を盾にとり、道徳や宗教を否定し、人殺しをしてもいいと論理的に結論づける。一方、このような相対主義的な若者に対して、道徳オヤジや新興宗教に走る若者たちやマルクス主義者は、絶対的な真理や善悪はあると主張し、ニヒリズムによる道徳の危機を嘆き、知的相対主義の若者を攻撃する。
私も以前、相対主義のニヒリズムに陥り、差別解放運動をする若者達に対して、差別を否定する絶対的な道徳的根拠はないので、差別をしている人たちに差別するなという価値観を押し付けることはできないと主張した。私個人としては差別は嫌なのでしないが、万人に差別するなと定言的命令を下すような絶対的・普遍的な善悪の基準が存在しないと主張した。そう言ったら、差別解放運動家にひどく怒られた。しかし、彼等は、論理的に差別がなぜ悪なのか若者達に論証することができなかった。相対主義者は、いじめ、差別、戦争、殺人、ファシズム、格差社会など、これらを悪であると、断罪できないのである。善悪は人間がつくりだした妄想なのであり、そのような実体のない物語を絶対化するのは、低能であると知的な若者は思い、道徳オヤジや新興宗教の信者やマルクス主義者たちを侮蔑するのである。 しかし、実は、区別の論理からは、相対主義も絶対主義も同一の区別コードに基づく思想なのである。(一/多)という区別コードのうち、絶対主義は一をマークして構築された思想であり、相対主義は多をマークし、構築された思想であり、同じコードに基づいているのである。絶対主義と相対主義は、マークした項が反対なだけであり、同じ区別コードに基づく同根の思想なのである。相対主義のニヒリストである知的若者と、道徳オヤジは、同根であり、同根であるからこそ、その対立は永遠になくならないのである。このことがわかれば、相対主義の若者は、道徳オヤジを非難できなくなるのである。なぜなら、同根の思想であり、道徳オヤジを否定することは自身の否定も意味するからである。 価値観の多様性を強調する相対主義の若者は、原理上、社会問題を全てモラルに還元しようとする通俗道徳オヤジを否定する絶対的な道徳的根拠を持ち合わせず、ニヒリスティックルサンチマンによる単なる感情的反応に終わるのである。ニヒリスティックルサンチマンとは、絶対的真理や善悪をもっていると実感している人たち(原理主義者=絶対主義者)に対する羨みとむかつきの感情である。 従って、差別社会・格差社会を批判するにしても、(善/悪)という区別に基づいて批判するのではなく、別の区別に基づく土俵で批判するほうが生産的なのである。しかし、差別や格差は悪だから批判するというのが一般大衆の批判動機である場合がよく見受けられる。 ▲
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| 2007-01-30 22:44
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独我論のコード
独我論とは,世界には私しか存在しないという思想である。しかし,思想である限り,独我論も,何らかの区別に準拠している。凡そ区別に準拠していない思想や論理はないのである。独我論が準拠する区別として,(自/他),(一/多),(同一性/別異性),(意識/存在)をあげることができるが,どの区別を強調するかで独我論の種類が異なってくる。各々の区別によって独我論を分類し,独我論とその対抗思想について論じたい。 1,(自/他)に準拠する独我論 (自/他)の区別に準拠し,自我のほうをマークして提示される独我論がある。自分以外の存在つまり他我(他者)は存在しないという思想である。所謂,世界=私という思想であり,ウィトゲンシュタインの独我論であり,自我独我論と呼びたい。 これと反対の思想は,(自/他)のうち,他我(他者)のほうをマークして提示される他者論である。レヴィナスの他者論がこれにあたる。レヴィナスの他者論では,まずは他者からの呼びかけがあり,その後に自我が発生すると考えられている。他者が自我よりも先にあるのである。 2,(一/多)に準拠する独我論 (一/多)のうち,一のほうをマークして提示される独我論である。世界には根本的に1つの実体的存在しかないという思想である。多様に見える現象世界の背後に,1つの実体的存在があり,世界はその1なる存在の部分であるというわけである。スピノザの無限実体としての神がこれにあたり,汎神論的独我論と呼びたい。 これと反対の思想は,(一/多)のうち,多のほうをマークして提示される原子論である。デモクリストの原子論がこれにあたる。 3,(同一性/別異性)に準拠する独我論 (同一性/別異性)のうち,同一性のほうをマークして提示される独我論である。世界にある全ての存在の本質は同じあり,結局は本質のレベルでは1つの存在にしかすぎないという思想である。ウパニシャッド哲学の梵我一如思想や老荘思想の万物斉同論がこれにあたる。 これと反対の思想は,(同一性/別異性)のうち,別異性のほうをマークして提示される思想である。サールのリゾーム論がそれにあたる。 4,(意識/存在)に準拠する独我論 (意識/存在)のうち,意識のほうをマークして提示される独我論である。意識のみが存在し,意識内容に対応する外界の対象は存在しないという思想である。これは,現象学的還元で語られる独我論である。現象学は,方法論的に,外界の対象が存在するのかしないか問うことを判断中止し,独我論的立場から厳密な学としての認識論を打ち立てていったのである。一方,存在が意識を規定するというテーゼに立つマルクス主義=唯物論は,そのような立場を観念論として斥けた。 これと反対の思想は,(意識/存在)のうち,存在のほうをマークして提示される思想である。素朴実在論やマルクス主義=唯物論がこれにあたる。 独我論の相対化 独我論は,ある意味,簡単に弁証法的に相対化できる。つまり,準拠する区別の反対の項をマークした反対の思想をアンチテーゼとして定立することで,相対化される。しかし,そのような相対化は,よく行われており,対立を回避するどころか,両方が相対的に対峙するだけにとどまることがある。その理由はあきらかである。反対の思想も独我論と同じ区別=コードに準拠しているからである。 ▲
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| 2007-01-30 21:42
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祈りとは、誰のためにするのか?
庶民が神仏に祈るのは、多くは愛する家族のためである。 祈りは、自分のためにするのではなく、愛する人のためにするものである。 だから、祈りとは愛である。 人のために祈った時のみ、神仏は現れるのである。なぜなら、神仏とは愛であるからである。そして、奇跡が起るのである。 ▲
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| 2007-01-28 23:11
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手塚治虫の「どろろ」が映画化された。いずれ見ようと思うが、原作はすでに読んだ。感動したシーンは二つある。
一つは、怪我をした戦災孤児たちを世話していたミヨという女性の話である。まさにマザーテレサのような人である。このミヨとの出合いによって、百鬼丸は、人の心を初めて得る。人間にとって手足よりも必要なものを得たのである。出合いによる奇跡を感じた。 もう一つは、お粥のシーンである。器がなかったので、どろろの母親が素手で僧侶から配給されたお粥を受けとめ、自分も餓えているにもかかわらず、火傷してまでも餓えたどろろに食べさせたシーンである。愛とは、自己犠牲であると感じた。虐待をする母親や、愛されていないと孤独になってリストカットに走る少女たちがいるが、このシーンを見たら、どう感じるだろうか? 神や仏もない弱肉強食のニヒリズムの世界に、平凡な人の心の中に神や仏を見い出せと、手塚治虫はメッセージを発し続けるのである。このメッセージは、手塚治虫の「ブッダ」のクライマックスでも見受けられる。 神仏は、人との関係の中で、普通の人の心の中に創発されるのである。別名、愛という。 ▲
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| 2007-01-28 22:47
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社会構築主義批判2
ナラティヴ・セラピーとは,他者との会話の中において,語ることで自己をつくり,様々な問題を解決・解消しようとする心理療法である。ナラティヴ・セラピーの基本原理は,社会構築主義に基づいている。つまり,現実はコミュニケーションによって構築されたものにすぎないという世界観に基づいている。 そこで,社会システム論から,ナラティヴ・セラピーを分析してみたい。まず,コミュニケーションを重視する点において,社会システム論もナラティヴ・セラピーも変わりはない。しかし,社会システム論においては,コミュニケーションの主体は心(心的システム)ではない。確かにコミュニケーションは二つ以上の心的システムが必要であるが,コミュニケーションの送信者と受信者は,人格システムに帰属することになる。 このように,社会システム論では,心的システムと人格システムを分ける。言い換えれば,「思っていること」=心的システムと「語られたこと」=社会システム(相互作用システム)の差異を前提としている。さすれば,語ることでつくられるナラティヴ・セラピーの自己とは,心(心的システム)ではなく,コミュニケーション・システム(相互作用システム)に包摂される人格システムということになる。人格システムとは、相互作用システムを可能にする役割システムのことを言う。人は、状況に応じて特定の役割やキャラクターを使い分け、演じることで、他者とのコミュニケーションの円滑化を図ろうとする。この役割自我を人格システムと考えることができる。社会学はコミュニケーション・システムを対象とし、心理学は心的システムを対象とする。そして、社会心理学の対象である自己概念=アイデンティティと呼ばれるものが、ちょうど、この人格システムにあたる。 システム論からすると,会話によってつくられる自己とは,心的システムではなく,このような人格システムなのである。つまり,ナラティヴ・セラピーの治療対象は,人格システムなのである。 ところが,ナラティヴ・セラピーは,原理上,自我一元論を採用しており,人格システムと心的システムの区別がなされていない。つくられる自分以外に本当の自分がどこかに存在するという実在論を拒否し,徹底的な一元論の立場をとる。従って,当然,演技する自己と本当の自己との区別,意識と無意識の区別などをも否定される。社会構築主義においては,自己はコミュニケーションによって構成されたものであり,それ以外の自己は存在しえないのである。実は,ナラティヴ・セラピーの原理的限界がここにある。 ナラティヴ・セラピーによって人格システムを構築したとしても,心的システムとの差異やズレは常にあり,人格システムと心的システムの構造的カップリングがうまくいかないおそれがある。また,人格システムは社会システムとの構造的カップリングも存在しており,社会システムと不調和(社会不適応)を起すような内容をもつ自己物語は否定されることになる。つまり,語ることでつくられる自己物語,つまり人格システムを維持するための物語の内容は,社会システムと心的システムによって制約を受けているのである。 このようにナラティヴ・セラピーには、社会システムや心的システムとの構造的カップリングがうまくいく人格システムしか構築できないという制限があるのである。この意味において,ナラティヴ・セラピーの無制限な多元的現実主義は,否定されることになる。構成された現実は,心的システムや社会システムなどによって,多様性の範囲に制約が課せられているわけである。平たく言うと、何でもありにはならないということである。社会構築主義の理論は、システム間の差異を考慮していないために、全て何でもありの相対主義になってしまうのである。システム論の場合、一つのシステムは他のシステムから制約を受けており、何でもありにはならないのである。 ナラティヴ・セラピーの対象は、その理論からすると、本来、人格システムであるにもかかわらず、心理(心的システム)が対象だと勘違いされている。心理療法として位置付けられ、心理的問題が解決すると思われている。ナラティヴ・セラピーは、心を対象としないので、心理的問題は解決できないのである。語る自分を制約するものを除去するためには、社会環境の改善や精神分析や別の心理療法なとが必要なのである。 ▲
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| 2007-01-28 21:11
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見田社会学における社会の四類型論を使用すれば、今議論がよくなされている郷土愛と国家主義のねじれた関係を解決することができる。
郷土愛は、共同体によって生み出される。一方、近代国家は、連合体としての体裁を整えている。社会の四類型論から理念的に説明すると、共同体と連合体は、そもそも全く異なり、対極にあることになる。共同体は、親密な人格的関係を基礎におき、意思以前の自然発生的な社会圏である。連合体は、非人格的関係に基礎をおき、人工的につくられた行政・法システムであり、意思によって自覚的に関わる組織体である。連合体としての国家組織があることで、他者からの不当な人権侵害行為を防ぐことができるのである。社会学的には、共同体たる郷土と連合体たる国家は全く性質が異なる社会圏なのであり、郷土愛と愛国心はやはり違うのである。 しかし、しばしば郷土を守るために愛国が必要だという論調をよく聞く。これはどういうことなのか?これを解くためには、社会の四類型論が連続性に準拠している理論であることを見ていく必要がある。実は、社会の四類型論は、非連続的二分法ではなく、連続的二分法に基づいているのである。(連続性/非連続)のうち、連続性をマークして構築された理論である。つまり、ある一つの社会圏は、共同体的要素、交響体的要素、集列体的要素、連合体的要素の全てを連続的に含んでいるということである。どの要素が強いかによって、区別されるだけである。例えば、学校を例に取ると、学校は法的には組織であり、ゲゼルシャフト=連合体であるが、内実は親密な友達からなる仲間集団が存在しており、ゲマインシャフト=共同体でもある。また、競争が存在しているという点で、集列体的要素も含まれている。また、クラブ活動などで、交響体的な要素も発揮できる。観察者がどの区別に準拠するかによって、別様に立ち現れる。 このように、現実の一つの社会圏は、複雑な様相を示しており、どの区別を用いて観察するかによって、様々な姿に見える。観察する側がいかなる区別を用いて一つの社会を観察するかで社会はいかようにも、そのようなものとして創発されることになる。 日本における国民社会=全体社会を観察対象とし、共同体的観点から観察すると、家族愛や郷土愛なるものが見えてくるのである。また逆に連合体的観点から観察すると、人権国家的様相が見えてくるのである。集列体的観点から観察すると、経済国家としての様相が見えてくるのである。交響体的観点からすると、福祉国家としての様相が見えてくるのである。 郷土愛が国家主義に利用されるのは、全体社会の同一性を媒介にして、郷土愛と国家がつながっているからである。ただ、そのつながりは、システム間の意味的・機能的なつながりではなく、観察者の主観の中で無分別につながれているにすぎない。全体社会という容器の中に、色々なものが雑多に混在しており、国家主義者という観察者がたまたまその中にある国家と郷土愛の二つを取り出し、自己の使用目的に応じてつながっていると言っているだけなのである。システム論で言う教育システムと労働システムが機能的につながっているという構造的カップリングのレベルではない。 しかし、一度、この二つがつながっているという言説がコミュニケートされるやいなや、多くの人々の愛国心の動機形成として郷土愛が利用され、それが機能的に連関しはじめ、社会的事実として本当になってしまうおそれは大きい。これを防ぐには、(戦争/平和)という区別で観察し直すことを勧めたい。 ▲
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| 2007-01-28 12:15
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システムは、要素と関係からなる。要素を何に設定するかで、社会学理論のあり方が変わってくる。古典的な社会学では、要素を個人と設定してきた。(個人/社会)という区別で構築された理論である。社会契約論などの各種社会哲学の多くは、この系譜に属する。個人の自由と平等という人権が確保される社会の設立を目指して、理論構築された社会哲学が多く見受けられる。デュルケームの自殺論などでも、基本的に(個人/社会)という区別に準拠して社会理論が構築されている。ジンメルの社会圏の交差という理論も、個人を単位とし、個人における社会圏の分属を描いている。テンニースの(ゲマインシャフト/ゲゼルシャフト)の社会類型論も、個人の集団所属の仕方に関わり、個人を社会の要素と捉えている。タルドなどの相互作用論は、(個人/社会)という区別に基づき、個人のほうをマークし、心間相互作用によって社会はできていると唱えた。社会学における方法論的個人主義と方法論的全体主義の対立は有名である。ちなみに、ハーバーマスの(生活世界/システム)という区別も、(個人/社会)という区別に別の区別を参入させてつくられたものである。
パーソンズの社会体系論に至って、はじめて(相互行為/社会)という区別に準拠して社会理論が構築された。そして、ルーマンは、(全体=社会/部分=個人)という認識対応図式そのものを解体し、社会の最小構成要素をコミュニケーションと定義し、社会システム論を展開した。(関係/要素)という観点からルーマンの社会システム論を観察すると、(コミュニケーション/社会システム)という区別に準拠していると考えられる。 いずれにしろ、要素を何に設定するかで、その社会理論の基本ベースが見えてくる。 さて、そこで、見田宗介の社会類型論は、社会の構成要素を何と設定しているのだろうか? 同氏は、他者の二義性と自由意志の二つの軸を掛け合わせ、四つの社会構成体がありうると考えた。交響体・連合体・共同体・集列体である。他者の二議性とは、他者が自己の幸福にとって必要な存在であるという側面と、逆にそれを制約・阻害する存在であるという側面を持ち合わせていることをいう。これを(共同態/社会態)の軸と呼んでいる。自由意思とは、自己選択的かそうでないかという軸である。これを(意思以前的/意思的)の軸であると呼んでいる。(即自/対自)と言い換えることもできると考えられる。この社会の4類型は、個人が社会あるいは集団にどのように関わるのかという観点から構築されており、明らかに社会の最小単位・構成要素を個人に設定している。この点、ルーマンとは全く違うと心得ておきたい。明らかにこれは、古典的な社会学や社会哲学の部類に入るのである。しかし、だからといって、無価値ではない。色々な社会思想や政治思想を分類する上で非常に役立つのである。また、別の機会にそれについて述べてきたい。 ここでは、(関係/要素=項)という区別が、システム論のみならず、全ての社会学理論・社会哲学・政治思想などのメタコードであるということを確認しておきたい。 ▲
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| 2007-01-27 11:27
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最近の一連の厳罰化・監視化の刑事政策は、一つの凶悪犯罪の発生を契機に、マスコミによる被害者感情の報道、弁護士、学者、評論家などのコメントによって社会問題化され、治安悪化神話として世間に広まり、人々の体感治安の悪化をもたらし、その結果、政治家が国会で法案をだし、政策ができあがるという順番で推移した。
しかし、芹沢氏と浜井氏は、実際には、犯罪は凶悪化・増加していないのに、このように体感治安が悪化したのは、主にマスコミの報道の仕方、犯罪の語られ方に問題が有ると指摘し、科学的根拠のない治安悪化神話に基づく政府の一連の刑事政策を鋭く批判した。この指摘は科学的に正しい。 上記・芹沢氏と浜井氏の言説は、書物ばかりではなく、治安悪化神話批判を支持するブロガーたちによって、ネットであまたの感想が書かれ、すでに「治安悪化」と入力し、グーグル検索をすると、上位のほとんどに両氏の治安悪化神話批判の記事がでてきている。それを受けて、新聞記者たちは慌てふためいたのか、両氏を支持する記事を書き出した。次の段階は、多くの人々が治安悪化は嘘だと気付き、治安悪化神話が消え去り、体感治安がよくなり、政府が動き厳罰化・監視化の刑事政策が変わるかどうかということである。もしここまで成功すれば、これは一つの新しい社会運動の形態と言っても差し支えないと考えられる。行政を動かすまでに至ったことになるからである。 この新しい社会運動がどのように名づけられるのか非常に関心があるが、評論ブロガーの役割も大きいと感じた。ネットの登場により、ジャーナリストでなくても、アクセス権(多数の人々に情報を流すメディアにアクセスする権利)を簡単にもつことができ、世論をつくることが可能になったのである。誰もが誰もに対して、意見を発することができるのである。グーグル検索上位はすごい影響力がある。治安悪化について知りたい人たちのほとんどが、ネット検索すると、まずは治安悪化神話批判の記事に目が触れるからである。議論の創発という意味では、この時点ですでに勝利している。新聞記事にのるよりも影響力は大きいと考えられる。 ▲
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| 2007-01-21 23:04
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社会現象は、内容と形式の二つの観点から観察できる。
例えば、宗教現象を分析する際に、儒教道徳、仏教思想、キリスト思想などの個々の意味内容に即して、思想史の系譜をたどることで、宗教現象を分析することが可能となる。西洋社会が罪の文化なのは、キリスト教の影響であるとか分析するわけである。道徳観念の意味内容(思想史)を分析しないと、本当にその社会の道徳を理解したことにならなとするわけである。歴史学などの人文科学がこの方法をとる。 しかし、人間科学なるものが登場し、社会現象をその内容ではなく、その機能によって記述するようになった。仏教であれ、キリスト教であれ、宗教と呼ばれる現象は、全て(聖/俗)や(超越/内存)というコードに準拠しており、社会システムや心理システムに対して同じ機能を有していると考えるわけである。平たく言うと、これは一つの万教一致思想である。内容に関わらず、全ての宗教は社会学的に同じ機能を有しているので、同じであるというわけである。宗教に関わらず、法・言語・道徳・伝統・習慣・生活様式など全ての現象に対して、個々の内容を捨象することで、その機能の同一性に注目し、人間科学は、社会を記述し、説明してきた。その際、各社会現象は異なる文化を横断して、機能コードの同一性によってひと括りにされる。 (内容/形式)という区別は、(人文科学/社会(人間)科学)の二つの方法論を区別するメタコードである。 ▲
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| 2007-01-21 10:38
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多くの人は、道徳や良心があるから、人は罪を犯さないと考え、そのことにより、社会秩序が守られ、治安の悪化を回避でき、安全な社会がもたらされると考えている。
従って、道徳が衰退すると、すぐに社会が崩壊するという不安を抱き、道徳の正当性を回復し、子供達には道徳を内面化せねばならないと思考してしまう。各種モラルパニックの根底にある思考はこれだと思われる。 このような道徳主義パラダイムの自明性に基づいて生きている人たちは、犯罪者が法律遵守を内容とする道徳=良心=規範意識を身につけることが真なる更生であると決めつけ、また教育の目的は道徳=良心=規範意識を習得して組織のルールを守ることのできる人間を生産することだと考える。道徳の根拠は、右翼なら伝統や国家、左翼なら自由と平等と民主主義に求められる。 しかし、近代に入り、このような道徳主義は、ニーチェなどのニヒリストや懐疑主義者や相対主義者によって徹底的に叩かれた。価値観は人や文化によって多様であり、絶対的な善悪の基準はなく、一切が無根拠であると暴かれた。しかし、前期ポストモダン論者の道徳批判は、システム論的ではなく、道徳内容の根拠を相対化するだけのものであり、徹底的ではなかった。各々の道徳の内容は確かに人や社会によって異なり、普遍的ではないが、道徳の形式的な社会的機能に重要視した連中がいた。それがデュルケームやウェーバーから始まる社会学の流れである。個々の具体的な道徳の内容には根拠や合理性はないが、道徳という形式それ自体は、社会を統合する機能を有しており、人類社会にとって必要不可欠であると考えられた。道徳の内容いかんにかかわらず、共通の内容の道徳というものが共有されているということ自体が、コミュニケーションを可能にし、社会秩序を維持するというのである。さらに、道徳に自我の統合機能を見い出した人物もいた。精神分析学や人間性心理学の祖であるフロイトである。道徳とは超自我のことであり、そこに意味論的に自我を統合する機能を見い出した。物語論者がこの流れをついでいる。人間科学の伝統では、道徳は、社会統合と自我統合を担い、社会的人間として生きる限り絶対不可欠な機構だと考えれきた。実は、ある意味、道徳とは、社会学と心理学をつなぐ唯一のキータームである。 道徳内容の無根拠性は、前期ポストモダン論者に否定されてきたが、社会学的機能と心理学的機能を中心に発展してきた人間科学(社会学、心理学、教育学)によって重宝されきた。道徳は衰退するどころか、その機能に注目されることで、科学によって生かされたのである。 しかし、道徳は本当に社会秩序維持機能=社会学的機能や自我統合機能=心理学的機能があるのだうか? 社会秩序維持つまり社会統合は、道徳がなくても可能だと考える理論がある。一つは、ルーマンの社会システム論である。これは、信頼と予期によって、円滑なコミュニケーションの連接過程=社会統合は可能だと考えられている。もう一つは、合理的選択理論あるいは社会的選択理論がそれである。予期の総和から社会統合を説明した宮台の「権力の予期理論」はあまりにも有名である。ハーバーマスも、前者よりは徹底性を欠くが、対話的理性によって生活世界の統合が可能であると考えた。あるいは、些か古典的ではあるが、アダムスミスのように、「神の見えざる手」による、各人の賢明なる利己心の総和から社会は統合されると考えることもできる。また、ブルデューのように、道徳ではなく、社会階層ごとのハヴィトゥス=習慣によって人々は行動し、それによって社会統合は可能になると考えることもできる。 道徳に頼らずに人々が共存できる社会を構想できるかどうかが現代社会学の課題であり、道徳に頼らずに人々が生きる意味を実感できる方法を構想できるかどうかが現代心理学の課題なのである。 ▲
by merca
| 2007-01-20 15:38
| 理論
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