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個物・個体・これ性・単独者の観察は、対象と認識内容の一致という真理観とは異なる。世界に一つしかない絶対的個は、どのような述定からも規定され尽されることはないわけで、そのものにこれこれの属性が宿るというかたちであらわすことはできず、究極的に同定できない。従って、固有名を使用して命名する他ない。名称を与えることしかできない。存在そのものの覚知のレベルであり、その存在の何たるかとは関係ないのである。「である」ではなく、「がある」という次元になる。
物理的リアリティに基づく自然科学は、対象と認識内容の一致という真理観に基づくが、個に対する観察は科学的観察ではない。しかし、自然科学は、無数に存在する具体的個物に対する認識なくしては実験ができない。個物の観察を前提としている。二つの水分子は、空間を共有しておらず、個物として異なり、別の存在である。同じ亀でも、あの亀とこの亀は個体として異なる。科学は複数の個物をサンプリングして実験をするわけであり、個物・個体の認識なしには成立たない。 社会的リアリティに基づく物象化やラべリング行為も、個体(個人)の認識を前提とする。同じ二枚の千円札は同じ価値をもつ信じられているが、個物としては異なっている。同じ女性と呼ばれる者も、個人としては、異なる人間である。ラべリング行為は、ラベルを貼る対象である個の存在の把握があって、はじめて成り立つ。 物理的リアリティも社会的リアリティも、ともに個物・個体(これ性)・単独者の観察を前提とする。そこで、このような個物・個体(これ性)・単独者の次元のリアリティを超越論的リアリティと名付けたい。超越論的リアリティの思考こそが、自然科学と社会学を統合する第一哲学である。超越論的リアリティは、一致にも共有にも還元されないのである。個体の生成消滅を生死と呼ぶが、生死にリアリティがあるのは、この超越論的リアリティの次元の出来事であるからである。 ■
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| 2007-10-21 09:19
| 理論
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社会学の公準
1 自己言及性(社会を社会から説明する。) 社会学の説明原理は、心理学の「心」、経済学の「効用」、生物学の「本能」などの別の学問が準拠している原理であってはならない。例えば、マズローの欲求段階説などで社会を説明しようとする者もいるが、これは社会心理学の「欲求」によって説明しており、社会学ではない。 2 社会的事実を具体的対象とする。 社会的事実とは、具体的には行為・言語・宗教・家族・集団・組織・道徳・思想・文化・世論・習慣・法律・経済などであり、人々がつくったものである。これらの共通の特徴は、人々がつくったものであり、具体的な個人の主観の外にあり、個人を拘束するものであるということである。 3 近代化の解明を目標とする。 社会学は、近代化の学である。文化人類学は多様な社会を扱うが、社会学は近代社会以降を扱い、近代化を解明することを究極目的とする。 ルーマン社会学は、上記の全てを満たしている。上記の公準から外れている場合、ニセ社会学である。 ■
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by merca
| 2007-10-14 11:21
| 理論
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レッテルは対象に対する意味付与行為であるが、当の付与された対象(人)がその意味を了解・受容し遂行する時、役割というものに変化する。
教師、僧侶、医者、警察官、店員、客、社長、兵隊、これらの属性は、それを担う具体的個人に宿るものではなく、他者や集団や組織からラベリング=意味付与され、付与された対象(人)が了解・受容・遂行することで成立つ社会的役割である。 レッテルと役割の違いは、レッテルは対象の合意なしに貼り付けているものであるが、役割は付与される対象の合意に基づいている点である。言い換えれば、役割は、レッテルの自己受容あるいは自己ラべリングということになる。 例えば、ニートは、大人から若者へのラベリング行為であるが、若者が付与された意味を了解・受容・遂行することで、役割となる。ちなみに、おたくというレッテルは、役割化している。 ■
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| 2007-10-14 10:42
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まずは、認識とラベリングの相違について述べたい。
認識作用とは、基本的には物理的リアリティのことである。つまり、認識主観に認識内容の原因があるのではなく、対象に一方的に認識内容の原因があるのである。認識主観にとっては、認識内容は非恣意的であり、必然性の相でもってたち現れる。端的にいえば、対象と認識内容の一致という模写説である。認識内容は対象に宿っている属性を写し取ったことになる。 一方、ラベリングは、認識主観に一方的に原因のある観察である。つまり、対象の中にはレッテルが指し示す属性が宿っていないということである。主観が対象に意味を投射したものである。主観の期待や物語を対象に押し付けたものであり、意味付与行為なのである。 ただし、ラベリングにも、規則があるラベリングと規則がないラベリングがある。規則があるラベリングとは、ある一定の属性をもつ対象にラベリングするというものである。例えば、具体的なある女性=対象に対して、「か弱い」というレッテルを貼ったとする。物理的リアリティの相からは、その対象は確かに生物学的性として女性の性質を宿している。しかし、次にそのような属性をもつ対象に「か弱い」というレッテルを付与する。生物学的女性という物理的リアリティを標識として、個々の対象にラベリングがなされる。また、裁判官も、物証によって立証された事実行為をもとに、法律という基準を適用し、行為者に対して、レッテルを付与し、犯罪者をつくる。規則のあるレッテルは、第一次観察が物理的リアリティ=事実に準拠するので、公平性はあるが、第二次観察は完全に一方的で恣意的な意味付与行為なのである。第一次観察の非恣意性が第二次観察の恣意性を隠蔽することがよくあり、これが隠蔽されると完全な物象化となる。システム論的にいうと、ラベリングの二重構造(観察の観察)に注意したい。規則のあるラベリングにおいては、第一次観察は(認識する/認識しない)という物理的リアリティに準拠し、第二次観察は(意味付与する/意味付与しない)という社会的リアリティに準拠しているのである。 参考 ちなみに、ニセ科学批判は、規則のあるラベリングの一種である。規則とは、科学の公準である。この公準に外れている科学と称する学説に対してニセ科学のレッテルを貼ることになる。 ■
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| 2007-10-14 10:19
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