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あやかし(物の怪)としての社会病理概念

 DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメントなど、これらの言葉は、学者や専門家が人々のコミュニケーションを観察してつくった社会病理概念である。つまり、当事者ではなく、第二次観察の結果、つくられた概念である。
 そして、今や、これらの負の行為を行った加害者は、無条件に社会から非難され、人格を全否定される傾向にあり、道徳的排除の対象となるのである。妻に暴力を奮ったら、DV夫としてレッテルを貼られ、子供に体罰をすると虐待親としてレッテルを貼られ、片思いでつきまとうとストーカーとしてレッテルを貼られ、部下に怒鳴るとパワハラ上司としてレッテルを貼られ、生徒に体罰をすると暴力教師としてレッテルを貼られる。
 すなわち、一度、そのような負のレッテルを貼られると、その人物の人格が絶対悪として構成され全否定されてまい、以後、どのような善い振る舞いをしても究極的に善い人間として見なされはしなくなる。被害者からは、更生はあり得ないと思われるのである。
 
 実は、DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメント等のような社会病理概念は、大衆にとっては、(加害者/被害者)という二元コードに準拠し、さらにメタコードとして(善/悪)という道徳コードに準拠している。簡単に言うと、加害者と見なされると、全人格において絶対悪であると見なされることになる。
 やかっいなことに、このような負の全人格的レッテルのせいで、加害者と被害者の関係修復が困難となってしまうことがある。夫婦関係、親子関係、部下上司関係は、分離崩壊という選択肢しかなくなり、家族関係や人間関係を崩壊させるという病理現象を生み出している。
 社会構成主義の観点からすると、一度、加害者に対してそのような負の対人認識が出来上がると、被害者は、歪んだ認識で全ての加害者の行為を悪意として受け止め、コミュニケーションは悪化していくことになる。また、道徳的に悪と思われたくないために加害者も被害者に不適切な反発言動を行い、その反発言動を根拠として、DVや虐待等のコミュニケーションが再生産されていき、益々、社会病理行為はリアルになっていき、予言の自己成就をとげる。
 
 学者や臨床心理士が診断して社会病理概念を適用するのならまだしも、当事者が社会病理概念を恣意的に使用するようになってしまい、単なる夫婦喧嘩がDVとなり、単なる親子喧嘩や躾が虐待や体罰となり、単なる恋人への不満表明がストーカーになってしまっている。
 学者の二次観察によってつくれた社会病理概念は、あくまでも専門家の診断によるべきであるが、当事者が概念の取り扱いに注意することなく、その概念を乱用するために、道徳コードに準拠してしまうわけである。本来、社会病理概念には、その行為の加害者が悪であるという道徳的判断は含まれてないにもかかわらず、一度、当事者である大衆に流布するや否や、道徳コードと結合してしまうのである。そして、人間関係崩壊という二次病理現象を引き起こしているのである。

 本来、人間科学的には、社会病理概念の役割は、加害者がそのような社会病理的行為をしてしまうメカニズムを解明し、問題解決することであり、加害者に道徳的判断を下すことではない。にもかかわらず、社会病理概念は、人口に膾炙した時点で、(加害者/被害者)というコードを経由して、(善/悪)という道徳コードと結合し、自らを再生産するとともに、加害者の人格に対して道徳的排除を惹起させ、家族や人間関係の破壊という別の次元の病理現象を新たに生み出しているのである。
 システム論的には、学者による第二次観察である社会病理概念それ自体が大衆によって道徳コードに準拠して観察されたことになるわけである。所詮、学者や専門家の観察(=専門用語)も社会から超越した特別な観察ではなく、それ自体が一つの社会内観察にしかすぎず、大衆の道徳コードによる二次観察によって利用される宿命にあるのである。多くの場合、大衆は、人間科学の諸概念は道徳コードによって観察し、一方自然科学の諸概念は真偽のコードで観察するのである。このように学者がつくった専門概念を大衆が活用するのは、再帰的近代化した社会にとっては、避けられない現象であるが、社会学者は、その過程自体を明らかにし、問題提起する役割を負っているのである。要するに、科学的知識に対する大衆の二次観察によるコミュニケーションを分析することになる。
 
 そして、多くの場合、社会病理概念は道徳コードと結合した時に、息吹を得て、人々の情念に取り付く負のあやかし(物の怪)となるのを心得ておくべきである。無論、社会病理概念だけがあやかしとなるのではなく、思想もあやかしとなる。むしろ思想があやかしになることの方が多い。その代表がニーチェ思想やマルクス主義である。
 このあやかしが、喧嘩している夫婦や親子の情念に取り憑き、最悪の物語を作り出し、事態を悪化させ、家庭崩壊という不幸をもたらすことがある。DVとか虐待という専門用語に取り憑かれた関係を解除し、専門用語では決して一般化されない個別的な心の理をしっかりと受けとめる実力のある心理カウンセラーや福祉ケースワーカーの存在が求められるのである。学者や評論家のつくった言葉の副作用を知るべきである。
 
 DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメントなどに含まれる道徳的判断をアポケーし、事実を事実として受け入れ、人の心の理を把握し、どのような道筋でその人に社会病理概念や思想が取り憑いたのか見極めるのが、真の臨床家である。

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# by merca | 2016-08-10 09:15 | 社会分析

思想・宗教より尊いもの

 世界には様々な思想や宗教が溢れている。
 しかし、思想や宗教が尊いのではない。
 尊いのは、思想や宗教を通して愛する者の幸福を願う人々の美しい心=他者愛である。
 たとえ、どのような優れた思想や宗教であったとしても、憎しみや利己心から思想や神仏を利用する者は、この世に破壊をもたらすであろう。
 
 本当に祈る人は、自分ではなく、愛する人たちを守ろうとし、愛する人たちの幸福のために、必死に思想にすがったり、神仏に祈ったりする。
 人は、自分のことではなく、家族や愛する人たちの幸福のために神仏に祈るのである。
 その時、尊いのは神仏というよりか、むしろ愛をもつ祈る者の方なのである。
 他者の幸福を祈った時、神仏は、その人に宿るのである。
 利己心から祈る者には、神仏は宿らない。
 利他心から祈る者にのみ神仏は宿るのである。
 
 この世の中にどんな優れた思想や宗教ができようとも、利己心から祈る者には、救いはないのである。どんな優れた社会思想であったとしても、恨みと憎しみの心を持つ人たちに利用されたら、世界を破滅に導くであろう。マルクス主義がその典型であった。マルクス主義を利用する醜い為政者たちのために、多くの人々が犠牲になった。
 赤軍派が自らの醜い自尊心のために同志をいじめ殺したり、また社会に恨みを持ったオウム真理教の麻原彰晃氏も仏教やインド思想を利用して若者を騙し信者として洗脳し、罪のない人たちを殺した。これらは、利他心ではなく、利己心を根本動機にして思想や宗教を利用した例である。
 神仏に家族の幸せを祈る平凡な庶民の方が尊い心=他者愛をもっているにもかかわらず、若者は安易にエゴイズムから奇妙な思想や宗教にかぶれるのである。

 しかし、心ある社会主義者を初めて知った。ムヒカ元大統領である。彼は、社会主義のために革命を望んだのではなく、愛する貧しい人たちを幸福にするために、戦ったのである。社会思想は、人々の幸福のための手段にしかすぎない。利欲や保身のために思想や宗教を絶対化したり、思想や宗教を利用して人を煽動するかぎり、戦争が起き、世界平和は到来しない。
 スターリンや毛沢東などの社会主義を標榜する独裁者は、多くの人々を殺戮した。暴力革命は民衆の命や幸福を奪う本末転倒の思想なのである。

 何のために思想に心酔しているのか、何のために宗教にすがっているのか、それを問うてみるがよい。もし保身や利己心のためであるのなら、自身と世界を破滅に導くであろう。
 ニーチェ思想にかぶれる多くの若者は、他者の幸福のためではなく、自我防衛のためにかぶれるのである。ムヒカ氏とニーチェは正反対なのである。

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# by merca | 2016-05-03 22:23 | 反ニーチェ

ムヒカ元大統領の幸福論が世界社会を変える

 今、日本でウルグアイ元大統領であるムヒカ氏の旋風が起っている。この方は、マザーテレサ級の偉人である。また、何となくワンピースに登場しそうなキャラクターでもある。ネット右翼や小林よしのりの反応を見てみたいものである。
 左翼や右翼という既成概念にとらわれ、そのような固定観念による視点でしかムヒカ氏を見ることができないとしたら、思想的に愚かである。人々の幸福に左翼も右翼もない。そこにあるのは、ただ経験に根付いた社会的真理のみである。
 
 ムヒカ氏の重い言葉に比べれば、社会学者・古市憲寿氏の幸福論がいかに軽く浅薄なものであるか実感させられた。雲泥の差である。人間としての本当の幸福は、古市氏が考えるような軽薄のものではない。「絶望の国の幸福な若者たち」において、単なる内閣府の社会調査統計によって、日本の若者は、絶望の国にあって、意外に幸福だという非常に浅薄な結論を導き出しているが、本当の不幸と幸福を知らない者の戯言にしか思えない。
 
 まずは、絶望の国? 何が絶望だと言いたい。本当の絶望を知らないから、安易に絶望だと言い放つことができるだけである。また幸福な若者たちと言い放つが、本当の幸福が何か知らない若者たちばかりである。不幸のどん底を知ってはじめて本当の幸福を知ることできる。
 そもそも絶望とは、不幸のどん底である。不幸のどん底にある社会とは、今のような日本社会には該当しない。いつ自分が死ぬかわからない戦時中の日本こそが絶望の国であったのである。戦後の日本社会を絶望の国というのはおこがましいに程がある。ムヒカ氏は、投獄され、拷問を受け、不幸のどん底から、本当の幸福を悟った。古市氏は、絶望という言葉を軽々しくよく使えたものだと思う。

 ムヒカ氏の幸福論からすると、本当に貧しく不幸な人とは、無制限な欲望をもち、いくらあっても満たされることがない人である。また本当に豊かで幸福な人とは、少しのことで満足できる人のことであるという。
 消費社会に踊られている日本人は、貧しく豊かではなく不幸だということになる。また、人間は一人では生きていけない存在であるという、ムヒカ氏の悟った真理からすると、日本社会で孤独化している若者や高齢者は不幸になる。孤独が最大の不幸という思想は、ムヒカ氏の長い投獄経験によるものである。
 
 ムヒカ氏は、人々が分かち合うことで、貧困はなくなると考えているようである。他者と分かち合うとは、単に物資を分かち合うだけでなく、愛を分かち合うことになる。分かち合うためには、人に対する愛が前提にないとできないからである。なぜ人は分かち合うのか、それは人の幸福を思うからである。
 かの歴史主義者・司馬遼太郎氏は、社会とは人々が分かち合うための仕組みである考えていたようであるが、ムヒカ氏は、その思想の体現者である。ヒトラー、毛沢東、スターリンのような独裁者とは対極の人物である。今世紀最大の哲人政治家である。
 
 さらに、ムヒカ氏は、マララと同じく、自分を虐待して来た人たちに対して恨みや憎しみをもつことは不毛であり、暴力革命ではなく、文化を変えることで、社会はよくなると信じている。ムヒカ氏は、愛する人とともに生活できることが最大の幸福であると信じている。
 世界社会となった今や、ムヒカ氏が理想とする博愛の社会は、平和を分かち合う世界社会においてはじめて達成される。個人のレベルだけでなく、世界の各国が平和を分かち合うことが求められている。日本国憲法における戦争放棄の思想は、来たるべき世界思想の先駆けとなるであろう。

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# by merca | 2016-04-25 23:25 | 社会分析

祝 人気ブログランキング社会科学部門1位

 社会学玄論のブログが、1月5日午前0時48分現在、人気ブログランキング社会科学部門1位となりました。
 読者の皆様!! 応援、ありがとうございます。
 ついでに、社会学玄論のツィッターを紹介しておきます。
 https://mobile.twitter.com/rontaku14?p=s
 今年は、ネット社会学者、ネット思想家の立場から、著名な思想家や学者に議論をふっかけていきたいと思います!!
              放浪の社会学ブロガー 論宅より

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# by merca | 2016-01-05 00:55

社会構築主義による観察 言葉(概念)が現実をつくる。

 社会構成主義における、言葉(概念)が現実をつくるとはどういうことか?
 それを説明してみたい。
 つまり、それは、言葉の意味する役割や機能を遂行することで、あとから現実が構成されるというメカニズムのことである。言葉が先にあり、後から認識対象が形成されるというわけである。
 簡単な例でいうと、一本の竹竿があり、ある人が釣り竿と見なし、釣り竿として使用できれば釣り竿となるし、別の人が武器と見なし、武器として使用すれば武器となる。また、さらにまた別の人が物干竿として使用すれば物干竿になる。このように一本の竹竿について、釣り竿、武器、物干竿という概念を付与し、そのように機能すれば、本当に釣り竿、武器、物干竿という認識対象が出来上がり、実在することになる。
 そして、釣り竿、武器、物干竿という三つの認識は、どれも正しく、相対主義となる。一つの対象に複数の認識が妨げ合わず成り立つわけである。認識主観の側に認識の原因があり、認識主観のもつ目的に応じて、複数の真理がある世界となる。一つの真理しか認めない自然科学とは異なり、社会科学の世界では複数の真理が成り立つ相対主義の王国となる。 
 要するに、以上のように、何々として見なして使用することで、後から認識対象が構成されることになる。

 また、別の角度の例をあげてみたい。例えば、教師は教員資格に合格して生徒に教えるという役割を遂行することで教師として世間から認められる。役割存在は、役割を遂行し、役割が他者から承認されてはじめて役割存在となるわけである。教師は最初から教師になる人物に内存していた性質ではなく、役割という概念が先にあり、役割付与とその遂行を通して後から現実が形成されることになる。
 一般化していうと、言葉を付与され、その機能を果たしたり、その役割を遂行することで、事後的に社会的現実が形成されることになる。
 虐待という言葉が人々の相互作用を通して虐待をつくり、セクシャルハラスメントという言葉が人々の相互作用を通してセクシャルハラスメントをつくる。感情のレベルでも、親からの体罰的躾を虐待と解釈することで、あとから虐待を受けたという恨みの感情が生まれることがある。感情さえも後から言葉によってつくられる。犯罪行為も、法律による裁判を通して犯罪として社会的に構成される。
  このように、社会的事実においては、言葉(概念)が先にあり、後から現実が構築される。ポンイトは、後から構成されたとしても、認識対象が全くの無ではなく、実在するものとして人々の前に現象化するということである。社会的事実は、人々の意識(意味世界)の外にあるのではなく、意識を離れては成り立たない意存的対象ということになる。社会構築主義の立場からは、人々の意識から全く独立した自存的対象としての社会はあり得ないと結論付けられることになる。ちなみに、社会のメカニズムや構造は、人々の意識から独立して実在する自存的対象であると主張する批判的実在論の立場とは全く異なるわけである。
 
 そこで、種々の分類概念や分析概念をつくりだす社会学者が気をつけないといけないのは、自らがつくった社会理論が社会思想として人々に作用し、本当に社会的事実となることである。いわゆる予言の自己成就である。社会学理論が社会をつくるのである。マルクス主義がそれである。
 批判的実在論も例外ではなく、批判的実在論の科学観が社会をつくるのである。社会構築主義の観点からすると、近代社会における批判的実在論の役割は、科学を確固たる真理として社会に流布し、科学を正常に機能させることである。

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# by merca | 2016-01-03 12:26 | 理論