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「健康で文化的な最低限度の生活」論評 福祉素人公務員の大活躍物語である。

 柏木ハルコ作「健康で文化的な最低限度の生活」という漫画が人気があり、生活保護世帯の現状をリアルに描いている。
 しかし、私が気にかかるのは、生活保護世帯の現状よりもむしろ市役所福祉課のケースワーカーの実態である。主人公は、社会福祉専攻ではなく、地方公務員の一般行政職なのに、いきなり研修もなく、福祉課のケースワーカーとして配属され、生活保護受給者と関わることになる。女子大生に毛が生えたような福祉の素人の女の子が貧困の第一線の現場に配置され、悪戦苦闘する物語なのである。
 ホームレス支援NPOの実践家や社会福祉士の資格を取得した福祉エリートたちからみたら、さぞかし腹立たしいことだと思われる。無資格で実務体験のないド素人の真面目な可愛い女の子が、強制的に職務としてホームレスやアルコール依存症のオヤジなどの相手をさせられているのである。
 児童福祉司が福祉的実務経験のないド素人の行政職員にやらせていることが、虐待を適切処理できずに放置する要因であると批判されている昨今に、福祉のド素人の新人女子公務員である主人公の活躍を描いているのである。「健康で文化的な最低限度の生活」という作品は、福祉専門家たちに挑戦状を叩き付けているような気がしてならない。

 同作においては、社会福祉士の資格を気取って登場していくる人物は描かれず、公務員組織の中で奮闘する市役所職員(労働者)の姿が描かれている。そして、見る限り、上司の指導や先輩職員の実務経験から学ぶという経緯で、ケースワーカーとしてのキャリアを積んでいき、鍛えられていく。どこかスポーツ根性物と似ている。福祉課の新人教育の仕方は、OJTというよりも、社会学的には、徒弟制度と全く同じである。社会福祉学という科学的な体系を先に取得し、実務に入るのではなく、いきなり上司や先輩から教わりながら実務をこなしていくのである。前近代的手法である。

 しかし、どうだろうか? 福祉を専門としない行政一般職の公務員のほうが、かえってよいではないかと思ってしまうのは、私だけだろうか?
 偏った福祉専門職のイデオロギーに毒されていないので、一般市民にとっては行政官としての偏りのない公平な感覚のほうが安心できるのではないだろうか?
 また、何よりも、福祉的専門知識という先入観に毒されていない主人公の若手女性職員の純粋な人間としての素直な反応に心を打たれはしないだろうか?
 誰かのために一生懸命になる姿や人間としての良心の葛藤が描かれており、読者の共感と賛同を得る。困っている人を見捨てないという気持ちに感銘するのである。
 社会福祉士を気取る人たちや貧困NPO活動従事者のように福祉に自身のアイデンティティを求める人たちよりも、明らかに安心できる存在なのである。

 他者論倫理学的には、福祉的知識によって救われたという被援助者はおらず、多くの被援助者は、SOSを受けとめてくれたその人によって救われたというのである。専門的知識が救うのではなく、人が人を救うのである。「健康で文化的な最低限度の生活」においては、福祉専門家としての役割ではなく、人が人を救うという臨床哲学的真理を感じ取ることができる。
 
 同じことは、今、話題になっているコンビニ店による子供食堂にも言える。コンビニ店による子供食堂を批判する福祉エリートたちがいるが、福祉の素人であるコンビニ店員は、変に福祉をかじっていないので、かえって人間としての純粋な心で子供にかかわることができると期待している。
 これは、福祉専攻でない福祉課の行政官が生活困窮者とかかわるのと全く同じ構図である。多くの福祉エリートやNPOエリートたちは、福祉の素人は困っている人を助けられないという認識が自らのイデオロギーにしかすぎないことに気づいてない。社会学的には、「福祉の素人は困っている人を助けられない」という命題は、実証されておらず、専門分化した分業システム社会における専門家集団のイデオロギーにしかすぎないのである。

 ともあれ、福祉の専門性にアイデンティティを求める人たちは、共有された権威的専門的知識にすがろうとし、人が人を助けるというもっともシンプルな哲学的真理を見失ってしまい、自分たちを脅かす活動を批判攻撃し、対人援助活動の独占権を得ようとするのである。
 しかし、皮肉なことに、一般市民は、魂の汚れた福祉の専門家ではなく、素朴な若手行政官の純粋性に対人援助の本来の精神=他者愛を見て、信頼するのである。対人援助を行う権利が全ての人に開かれる時に、対人援助はその世界性を獲得するのである。
 ちなみに、多くの人事担当者は、一般行政職の公務員のほうが、福祉職や心理職の公務員よりも、公平性や社交性があり、常識的でコミュニケーション能力が高く、職場での対人摩擦は少ないと感じているようである。これは、端的に、もともと対人関係の苦手意識をもつ内向的な若者が、心理学や福祉学を大学で学び、福祉や心理の世界を目指す傾向にあるからである。

「健康で文化的な最低限度の生活」においては、福祉の専門的知識をもつケースワーカーではなく、誰かのために一生懸命になれる純粋な心を持つ一人の女性若手行政官の姿が描かれており、一般市民はその姿に感動するのである。そんな一般職の若手行政官が全国の福祉課におり、福祉の最前線において、我がままな酔っぱらいやホームレスの暴言に耐えながら対応をしていることを知って欲しい。自己の自尊心のために援助する福祉エリートやくたびれたずるいベテランケースワーカーよりも、まともな意識をもっている子たちであり、その倫理的卓越性は国民の賞賛に値するのである。
「健康で文化的な最低限度の生活」では、誰が福祉を支えているのか、真実を見直すことを提起しているのである。

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by merca | 2019-03-08 23:27 | 社会分析 | Trackback | Comments(0)

社会的包摂主義ファシズムの対抗思想としての切断論

 福祉の道に進んだ人たちや反貧困主義者は、(包摂/排除)という区別から社会を観察し、排除型社会を否定し、包摂型社会を理想としている。民主主義や平和主義という政治思想よりも、包摂主義を尊重する思想的傾向にある。また、政治家も官僚も基本的に包摂型社会を支持しており、包摂主義に準拠した施策を打ち出している。このように社会的包摂主義は、あらゆる分野において民主主義にとって変わる価値観になりつつある。
 包摂型社会とは、雇用、教育、経済、法律、科学、医療、政治、スポーツ、芸術等のあらゆる社会の分野において、特定の負因をもった人々が排除されず、コミュニケーションに参加できる社会をさす。正社員と非正社員の二極化社会に対する批判にかかる言説なども、この系譜に属する思想である。反貧困主義者たちが、階級闘争によって社会革命を起こそうとするマルクス主義(共産主義)に安易に吸収されないのは、包摂主義の価値観を所有しているためである。日本社会におけるあらゆる立場の人々に、包摂主義は浸透しており、共通の価値観になりつつある。
 しかし、一部には違う動きもある。例えば、ニセ科学批判のように、科学的コミュニケーションから、クリティカルシンキング(批判的思考)を欠いた疑似科学を排斥するという排除主義も認められる。疑似科学を科学として包摂する寛容性や価値観の多様性は、ニセ科学批判者にはない。同じく、ネット右翼のように政治的コミュニケーション等から外国人を排斥しようとする排除主義も認められる。とはいえ、包摂主義が現代社会の中心的価値観を占めつつあるということに変わりはない。
 
 論理的には、包摂主義は、民主主義と同じであり、論理的矛盾のある思想である。包摂主義は、排除主義を包摂しても排除しても、論理的に成り立たず、自己言及のパラドックスに陥るからである。一方、排除主義は、論理的には、包摂主義を排除することで論理的一貫性をもち、自己言及のパラドックスに陥ることはない。
 その意味で、排除主義は、道徳的には人々に賛同されないものの、論理的には包摂主義に勝ることになる。従って、論理的純粋性を尊重する人たちは、排除主義の立場をとるであろう。ニセ科学批判者しかり、ネット右翼しかりである。そして、さらに言うと、接続過剰社会を批判する切断論者もそうである。包摂による自己矛盾を抱えたくないために切断論者は、多様な存在との関係を断ち切り、自己の論理的一貫性を保とうとするのである。
 
 社会学的には、(包摂/排除)という区別は、そのまま(接続/切断)という区別に対応し、同じ内容を別の言葉で表現しているだけであり、機能的等価である。包摂されているものは接続されつながっており、排除されているものは切断され分離しているのである。
 従って、究極のところ、哲学者千葉雅也の切断論は、排除主義のカテゴリーに入るのである。接続過剰社会は包摂過剰社会と同義であり、接続過剰社会批判は包摂型社会批判でもあるのである。
 放浪生活を好んでしているホームレスに社会的包摂を勧める反貧困論者は、切断論者から根本的に否定されるであろう。社会的孤立者の中には、自ら自己選択で社会からの切断を望んだものがいる。にもかかわらず、強制的に、包摂主義者は、自己選択・自己責任でホームレスになった人たちを包摂し社会に関係づけようとするのである。包摂主義ファシズムである。
 
 実は、このような包摂主義ファシズムに対抗できる哲学的根拠を示したのが、千葉氏の切断論となるのである。切断論の本質は、排除論なのである。自己を束縛する社会(関係)を自己から排除することを唱える。
 そこで、包摂主義の流布や包摂主義に基づく国家の施策(ニート・ひきひもり支援など)によって、接続過剰型社会が生み出され、身動きがとれなくなっている人たちが多くいるという社会診断が正しいかどうか検証してみる必要があるのである。
千葉氏の切断論は、湯浅氏の反貧困論(社会的包摂論)とは逆の提案をしているわけであるが、それが有効であるためには、包摂を望む人たちと切断を望む人たちが、どれだけ社会にいるのか社会調査が必要かと思われる。有効な包摂主義ファシズムへの対抗思想になるかどうかはそれ次第である。 
 
 ここからは社会的予言をしておこう。社会学者ルーマンによれば、社会進化は分節化、階層化、機能分化(近代化)の段階で進んで来たが、今後、未来社会は(包摂/排除)に基づいた社会分化に進む可能性があると指摘している。おそらく、それは、社会の内にいることも社会の外にいることも、同時に肯定されるような社会であろう。社会の内を居場所とすることも、社会の外を居場所とすることも、自己選択することができる社会であろう。

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by merca | 2014-09-07 10:29 | Trackback | Comments(1)

ホームレスは減っている! 貧困化社会論は統計的にはウソ。

 ホームレスが増えて社会が貧困化しているという貧困化社会論は、神話である。実は、統計上、ホームレスの数は減っている。7年前に比べてほぼ半減しているのである。
 社会実情データ図録 厚労省「ホームレスの実態に関する全国調査結果」
 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2970.html
 
 厚労省のデータによれば、2003年は25296人であったものが、2010年には13124人に減っているのである。これは正しく、貧困化社会論・格差社会論を反証するデータとなっている。
 ホームレスが減っているのにホームレス問題がなぜこんなに取り沙汰されるのだろうか? ホームレスが客観的に減少しているのなら、公設派遣村は本当に必要だったのだろうか? そのような疑問がわいてくる。
 実は、ホームレスは貧困の象徴であり、貧困化社会論を唱える人たちにとってはホームレス減少は都合の悪いデータなのである。
 また、近年、失業率はあがっているにもかかわらず、ホームレスは減っているのである。失業率とホームレスの相関関係は、統計上、全く関係ないことになる。統計から科学的に解釈するとそうなる。統計的事実からは、不景気で失業率があがると、職を失い、ホームレスになるという理屈は反証されるわけである。

 キッセの社会問題における社会構築主義理論で解釈すると、湯浅氏のような活動家たちによってホームレス問題が社会問題(社会責任)として取り上げられ、マスコミで報道され、ホームレスが増えているという印象を人々に与え、社会は貧困化していると、人々が思い込んでいるのである。ホームレス問題は疑似社会問題である。

 これは社会学でいうモラルパニックの一種である。ホームレス問題の報道が増えたことで人々が問題を社会責任として意識化してしまった結果、ホームレス問題が社会問題として構築されたのである。ネットで自己責任説を唱えてみたまえ、たちまちそれは間違っていると非難の嵐がくるだろう。
 湯浅氏の反貧困論の戦略に見事に社会ははまったのである。反貧困論の社会思想としての社会機能には感服する次第である。国策までに影響を与えている。今や自己責任論を唱える人は世間から叩かれるようになったのである。そして、生活保護率は上がっている。反貧困思想の煽りで厚生年金に加入していない老人が生活保護を受けやすくなり。高齢化に伴い生活保護世帯は増えている。
 ともかく、これほどまでに思想=物語が社会に影響を与えた例は近年ない。宮台氏と寺脇氏の成熟社会論という思想による「ゆとり教育」政策以来である。
 統計的事実ではなく、社会思想が社会をつくるという私のテーゼは、反貧困思想によって見事に実証されているのである。私が客観的事実に立脚してホームレスの自己責任説が正しいとか、ホームレスは減っており、社会は貧困化していないと言ったところで、その事実が社会を動かすことはないのである。
 
 それと重要なことをもう一つ。ホームレス化は自己責任であるというのは、次の事実からもわかる。男女という区別からホームレスを観察することで、ホームレス問題が相談力という対人スキルの問題であることが明確化してくる。ここはホームレス問題の盲点であり、みんなあまり気づいていない。
 ホームレスの男女比率は、2010年の統計によれば、男性が12253人、女性が384人、性別不明が487人らしい。ほぼ95%以上が男性であり、女性は数パーセントにしかすぎない。この差異はどこからくるのか?
 それは、女性のほうが人に頼るコミュニケーション能力が高いからである。女性は、離婚して、母子家庭になっても、ホームレスにはならないのである。両親の家庭を頼ったり、友人の援助を受けるための相談交渉能力があるのである。女性は男性よりも、悩みを人に相談する相談力があるので、援助を受ける機会が増えるのである。貧困になっても、相談する女性は生き残り、相談するスキルのない男性は不器用でホームレス化するのである。
 とにかく、ホームレスになる前に、プライドを捨てて相談しまくることが必要であり、これは自己責任の話である。女性はうまく人に相談することでホームレスにならないのに、男性はうまく相談することができず、ホームレスになる。自己責任として、男性ホームレスも人にうまく相談する対人スキルを学びなさいということである。

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by merca | 2010-11-07 21:21 | 社会分析 | Trackback | Comments(8)

貧困の自己責任説蔓延というウソによって蔓延する反貧困思想

 「若年ホームレス化は、貧困ではなく、コミュニケーション能力に原因」というエントリーは、反響が大きかった。しかし、そのほとんどの意見は、私に対する批判で、自己責任論否定であった。
   
http://b.hatena.ne.jp/entry/mercamun.exblog.jp/14320171/

 さて、湯浅氏によれば日本社会では貧困の自己責任説が蔓延っているというが、ネットでの反応を見る限り、自己責任説をとる者はほとんどいない。私くらいである。つまり、湯浅氏が主張する、日本社会に貧困の自己責任説が蔓延している、という仮説は事実ではないことが証明された。従って、自己責任説の蔓延がホームレス支援の妨げになっているという湯浅氏の主張は全くデタラメだということになる。
 日本社会で、ホームレスが自己責任であると思っている人間は、私を除いて誰もいないのではないかと思うほどである。つまり、多くの国民は、ホームレスは自己責任だと思っていないのである。
 皮肉なことに、多くのネット論客は「日本社会に貧困の自己責任説が蔓延し、それがホームレス支援の妨げになっている」という虚構を信じることで、自己の価値基準からそれはいかんと思い、躍起になって貧困の社会責任説を支持する仕組みになっているのである。これが、私の自己責任論を道徳的に叩くネット論客の心理構造である。このことによって、日本国民がほとんどホームレスの自己責任説を支持していないという事実が隠蔽されることになる。
 
 反貧困運動は、虚構物語としての貧困の自己責任説蔓延説を仮想的敵として、運動の動機付けを調達しているのである。この社会運動上の巧妙なトリックに気づいている者は少なく、多くの浅学のネット論客は、貧困の自己責任説蔓延説を事実と勘違いし、自己責任説を叩くのである。

 日本社会に貧困の自己責任説が蔓延し、それがホームレス支援の妨げになっている、という確かな事実はない。少なくとも、もし自己責任説を否定する多くのブコメの論客たちが日本国民の意見を代表しているというのなら、なおさらそうであろう。

 もし自己責任説が蔓延しているというのなら、自己責任説に賛同するブコメのコメントが欲しいものであるが、全くない。やはり貧困の自己責任説を唱える者はおらず、仮に唱えても私のように叩かれるわけであり、貧困の自己責任説を持つことは世間の集合的制裁にあうのである。自己責任説を唱えている人をネットで探すのは困難である。
 
 私見であるが、むしろホームレス支援団体のケースワーカーや福祉事務所職員たちの方が、本音においては自己責任説が実感として正しいと思っていると思う。日頃からホームレスと関わる福祉事務所職員や施設職員たちは、自己責任説が正しいと心の中で思っていても、世間や反貧困思想をもつ人たちに叩かれるので、口に出せないのが実情ではないだろうか?
 
 ちよっとした職場でのトラブル、飲酒やギャンブルなど、自分勝手な理由で仕事をやめ、自分勝手な理由から家族を頼らず、福祉事務所に金を出せと脅迫にくるホームレスに深く傷つけられた福祉職員たちが、蔓延している反貧困思想のせいで、大きな声で自分たちの本音を表明できない状況をつくっている。

 よかったら、自己責任説を支持しているブログを探してみはと思う。ほとんどないだろう。それは、自己責任説を唱えると叩かれるからである。これではネットは、大衆全体主義社会と同じである。ここでも、ニセ科学批判運動と構図は同じである。
 
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by merca | 2010-11-06 11:05 | 社会分析 | Trackback | Comments(1)

若年ホームレス化は、貧困ではなく、コミュニケーション能力に原因。

 ホームレス支援施設に、二十代、三十代の青年が入所しており、若年ホームレスの割合が増加しているという。
 若年ホームレス化は、経済的貧困や失業が原因というよりも、コミュニケーション能力の欠如のほうが根本原因であると言える。ホームレスになる前に、生活を立て直すために、他者の協力を得る対人関係能力や交渉能力がないからである。

 例えば、派遣切りにあっても、故郷の親や兄弟、元彼女、友人、元派遣先同僚などに頭を下げて宿泊させてもらうとか、当面のホテル代を貸してもらうなどして、住込み就労先を見つけるなどすることもできる。つまり、対人交渉能力があれば、他者の協力を取り付けることで、ホームレスにならずに済む。しかし、若年ホームレスには、それができない。なぜなら、人に頭を下げて相談し、援助を要請するコミュニケーション能力が欠如しているからである。また、プライドが高いので、人を頼ろうとはしない者もいる。

 他人が自分のために援助してくれるためには、日頃から良好な対人関係を保っておく必要があるが、自己中心的な若年ホームレスには頼れる友人も少なく、孤立化しており、いざという時に誰も助けてくれない。つまり、もともと対人関係が苦手なので、家族関係も友人関係も恋愛関係も保つことができず、いざという時に頼れず、ホームレス化するわけである。
 このように、コミュニケーション弱者が若年ホームレス化しているのである。湯浅氏が考えるような経済的要因=貧困が原因ではなく、対人関係能力が若年ホームレス化の真の原因なのである。
 
 ホームレスから立ち直るためには、ホームレス化したことを社会のせいにするのではなく、自身に対人関係能力が備わっていないという自己責任として事実認識し、自己の行動を改め、人間力をアップすることが大切なのである。若年ホームレスにとっては、社会責任論は自己の問題状況の合理化・正当化の手段にしかすぎない。社会責任論という観念的な物語に甘えるのではなく、コミュニケーション能力の欠如という具体的事実から出発することでしか、問題は解決しない。
 反貧困論は、若年ホームレスには人間力をアップすることがお金よりも大切であるという現実を覆い隠すことで、ホームレスを再生産する思想装置として働くのである。貧困化社会ではなく、コミュニケーション格差社会こそが日本社会の実態なのである。

 若年ホームレスに対しては、資金援助ではなく、心理療法たるSST(ソーシャルスキルトレーニング)の提供こそが真なる処方箋となるのである。

参考
反貧困思想の教典 「椅子とりゲーム」のトリックを暴く

貧困社会論、若者はかわいそう論は、ニセ社会問題

 ちなみに、若年ホームレス化の原因がコミュニケーション能力にあるという説は、様々な論客が唱えており、私だけが提唱しているわけではない。
 仮に若年ホームレス化の問題が社会にあるとしても、それは湯浅氏が主張するような貧困などのような経済的問題にあるのではなく、学校教育の問題である。学校教育は組織労働に耐えうるコミュニケーション能力をもつ人材を育成すべきであるのに、その教育機能が十分に発揮されていないわけである。
 
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by merca | 2010-10-31 17:21 | 社会分析 | Trackback(19) | Comments(5)

児童虐待は、個人や社会でなく、家族責任。

 貧困・虐待・犯罪の原因・責任を,個人と社会に分ける考え方があるが、(個人/社会)という区別はあまりにも単純すぎる。社会といった時に、それが何を指すのか全く論じられていないからである。社会といっても、仲間集団、家族、企業、国家、社会階層、市場など色々なレベルがある。それを抽象して、社会と一括りにしては粗雑な議論になる。
 例えば、児童虐待の原因は、核家族化にあり、国家や社会全体に問題があるのではなく、家族に問題があるのである。祖父母が同居する直系家族であれば、祖父母による育児サポートや監視があるので,虐待コミュニケーションは起きないとされる。虐待を防止できないのは、個人や社会のせいではなく、家族形態のせいである。育児に有利な家族形態を選択しなかった個々の家族の責任である。
 貧困も犯罪も、社会のせいではなく、多くは家族関係に規定されている。貧困化は、単身生活で起こりやすい。祖父母が年金生活をしている場合、ニートやフリーターでも食べていける。一人ずつの収入が少なくても、共同生活をすれば、やっていける。私は、家族と喧嘩して故郷に帰れず、ホームレス化した派遣社員をよく見てきたが、多くは家族関係の解体が背景にある。
 犯罪・非行の原因も、もとをたどれば、離婚や家族関係の悪化が背景にあったりする。社会と個人のどちらに原因・責任があるのかという議論は、家族に原因・責任があるという根本的な視点を隠蔽する。湯浅氏の反貧困論の思考枠組みである(個人/社会)という区別コードは、家族問題を隠蔽する装置としてはたらいている。 また、高齢単身世帯の問題も、自分の子供が親と同居しないことからくる問題である。最近の貧困・虐待・犯罪という社会病理現象は、家族というシステムが社会の構成単位として十分に機能しなくなったことに起因している。
 この社会的事実を隠蔽するのが、(個人/社会)という単純な思考方法である。個人と全体社会の間には、多くの組織システムがあり、原因・責任の帰属はそれらのシステムに負わせることも可能なのである。家族責任という社会的概念をつくり、個人と社会という単純な思考方法から解脱する必要がある。

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by merca | 2010-08-22 11:35 | 社会分析 | Trackback | Comments(2)

社会変革福祉集団ほっとポットに見る専門エリート意識

 特定非営利活動法人「ほっとポット」が、これまでの古典的な社会変革とは全く異なるかたちで社会変革を推し進めようとしている。これまで社会変革と言えば、政治システム、経済システム、法システムを変えるという方向が多かった。しかし、成熟社会に入り、福祉システムを変革することが社会変革の中心になってきた。その象徴が、まさしく特定非営利活動法人「ほっとポット」の支援活動である。
 「反貧困ネットワークの実践」という書物に活動の理念や実績が克明に書かれている。
 福祉の壁、つまり住所がないと生活保護の申請ができないという虚構を見抜き、家主等の協力者と組んでホームレスを保護し、自立に導いている。実に、素晴らしい実践である。
 その本質は、被支援者が求めるものを分野を越えてコーディネイトするジェネラルソーシャルワークという理念である。福祉事務所は、支援対象者を分類し、一つのカテゴリーに押し込め、型にはまらないと排除するという方法をとって来た。福祉の水際作戦の底流に流れる分類主義である。ほっとポットは、そのような福祉行政を全て否定する。
 多くの支援対象者=ホームレスなどは、病気、住居、高齢、家庭問題、就労問題など、関連する複数の問題を抱えている。ほっとポットにおいては、これらを分割して支援するのではなく、支援対象個人に集点を当てて、トータル・コーディネイトするわけである。例えば、就労するためには、住居が必要であり、病気治療も必要である。単に職業安定所にいけと言っても、住所がないので職を紹介できませんとか、病気の人を雇ってくれる会社はないと言われるので、住居の確保からはじめ、医療、就労へと広げていくことになる。公的相談機関は、問題を分類し、バラバラに捉えて措置することで、適切に援助できないわけであるが、ほっとポットが援助の中心となることで、各々の分野の相談機関の支援を有機的に連動し、真に支援対象者を助けることが可能となるのである。

 さて、社会学的な立場から、ほっとポットの若者たちに関して非常に興味をもったのは、自分たちの専門性と資格へのこだわりである。社会福祉士という国家から付与された専門性と資格こそが彼らを支えているという事実である。ほっとポットの若者が高い倫理性と志をもち、活動を続けている理由は、社会システムから付与された専門的役割と社会的使命感に基づいているからである。それは、法システムの専門家である弁護士が社会運動するのと似ているのである。無資格のボランティアではなく、社会福祉学という人間科学を学んだ専門家だという誇りが、専門エリート意識をもたらし、彼らの活動を動機付けているのである。
 特定の分野に置いて、特別な存在として社会的に自尊心を満たすことができること、これは非常に社会学的には高い動機付けの仕組みである。臨床心理士や精神保健福祉士などにも、同様の専門エリート意識がある。もはや学歴が自尊心の根拠になるのではなく、専門的資格が自尊心の根拠となっている。
 反貧困創始者の湯浅氏は東大法学部卒の学歴を有し、社会を実体化し社会責任説を唱えるなど古典的な社会観にとらわれている。ほっとポットは全く違っている。学歴ではなく、社会福祉士という資格をもつ者こそが社会変革の中心なのである!! 
 今後、(社会責任/自己責任)という社会的に構築された区別に拘らず、社会福祉士の使命として、求める支援対象者に対して平等に支援してくれることを期待したい。
 
 現在、大学では、人間科学系や福祉系の学部が多く出来ている。社会福祉士、精神保健福祉士、臨床心理士などの資格をとることで、社会から肯定され、専門エリートとして育成されるのである。
 序列のある学歴社会から対等な専門職が活躍する社会への移行、これは教育社会学者・本田氏の理想でもあるのである。
 今後、福祉会のスターである、ほっとポットに憧れる福祉系の若者たちが増え、社会福祉士の資格に魅了されていくであろう。社会主義や新興宗教に走る救済者願望の強い意味系の若者たちが、成熟社会の花形職業である福祉職に流れ込み、社会から生きる意味=使命感を与えられ、無害化されることを期待したい。

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by merca | 2010-07-11 11:48 | 社会分析 | Trackback | Comments(0)

貧困社会論、若者はかわいそう論は、ニセ社会問題

 浜井浩一や安原女史などの治安悪化神話批判論者たちは、統計上は犯罪が減少していることを根拠に、世間にはびこる治安悪化論をマスコミや評論家等がつくりあげた虚像として断罪してきた。そして、多くのブロガーたちは、世間の常識を覆す治安悪化神話批判論者の言説に追従した。
 同じように、統計的事実を根拠に、世間にはびこる貧困社会論及び雇用不安社会論をマスコミや学者がつくりあげてきた虚像として批判する理論が登場した!! 
 それが、人事コンサルタントの海老原嗣生氏による「若者はかわいそう論」のウソ データで暴く「雇用不安」の正体、という書である。
 端的に言うと、同書は、貧困社会論批判、雇用不安社会論批判の書である。また、加えていうと、俗流若者論批判批判の書でもある。

 同書では、統計的根拠に基づき、若者の焦点を絞り、貧困社会論にまつわる通説をことごとく否定する。
 若者の就職難はウソである。大企業の求人も減っていないし、中小企業の求人は非常に多いという。からくりは、大学進学率の増加によって大学生の数=母数が増加し、学生たちが中小企業の求人を拒否し、大企業の求人に殺到することにあるという。椅子取りゲームの椅子ではなく、椅子取りゲームの参加人数に原因があり、競争倍率を吟味することなく、殺到する若者たちの就職意識に問題があるわけである。湯浅氏の反貧困論はここで破綻する。これは、大企業への就職競争に殺到する若者たちの自己責任なのである。中小企業を選択すると、椅子取りゲームにはならないのである。椅子取りゲームは社会から強制されているのではなく、プライドの高い若者の自己選択の結果、つまり自己責任である。また、20代の前半の正社員が激減しているというのも、学生アルバイトの増加を考慮しない虚像なのである。職業の選り好みという若者の自己責任要因によって、就職難の体感意識が形成されていると考えられるのである。

 貧困社会論、つまり日本が貧困になった、貧困格差が拡大したというのもウソである。OECDの貧困率(平均所得以下の世帯の割合)については、高齢者世帯の増加が考慮されていないわけであり、貧困率をもって貧困格差が広がったと言い辛い。全体世帯の7%弱の非正規社員が増加して貧困率があがったのは、ウソである。つまり、ワーキングプアが増加して日本社会が貧困になったというのは、マスコミがつくったウソである。
 市民活動家、マスコミ、ブロガー、政党が貧困社会論や格差社会論を煽り、人々に日本は貧困化しているとの意識を植え付けたのである。その結果、国民の一億総中流意識もなくなってきたのである。これは、もはや貧困論におけるモラルパニックである。日本が貧困化してきているという貧困社会論は世間の常識となったのである。

 海老原氏の貧困社会論批判は、広い射程をもつ。一つには、貧困社会論の大御所である反貧困論の虚構を暴いた点があげられる。椅子取りゲームの前提は崩れた。椅子取りゲームになるような雇用情勢は、大企業就職を希望する若者のプライドの高さによる自己選択の結果である。雨宮氏などのワーキングプア論も一部の現象であり、全体の貧困率とはあまり関係がないことが実証された。
 もう一つは、社会から若者がバッシングされているという「若者はかわいそう論」や俗流若者論批判も虚像であったことがわかった点である。少なくとも雇用面では排除されているわけではないことになる。排除されるのは、ひきこもり系の対人折衝の苦手な若者たちであり、それ以外の大多数の若者は排除されていない。「若者はかわいそう論」や俗流若者論批判などに共鳴する若者たちは、おそらく自らが不登校やひきこもり体験をもつなど、一部の内向的な若者たちであり、そのイデオロギーに基づくものと考えられる。あたかも全ての種類の若者が社会全体からバッシングされていると虚像をつくりあげる後藤氏の俗流若者論批判には注意しておこう。若者の雇用不安とひきこもり系若者の雇用不安は区別されるべきなのである。

 ともあれ、貧困社会論、若者はかわいそう論(俗流若者批判等)などは、同書によってニセ社会問題であることがわかった。高齢化社会問題、学歴社会問題こそが、隠された本当の社会問題だと思う次第である。

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by merca | 2010-06-19 15:26 | 社会分析 | Trackback | Comments(19)

資本の運用が貧富の差をつくる。

 資本は、収入や財産などの経済資本、学歴や資格や教養などの文化資本、人脈や社会的信頼などの社会(関係)資本の三種類に分けることができる。一般に、これらの資本が多いほど、豊かな社会生活を送ることができる。経済資本、文化資本、社会資本は、それぞれ互いに変換性をもつ。お金があれば、塾に通うことができ、高学歴という文化資本に変換できる。また、高学歴で医者や弁護士などに就職すると、高収入という経済資本を得ることができる。また、社会資本が多ければ、商売でも人脈を使用し、顧客を得ることができ、儲かることになり、経済資本を蓄積できる。
 
 これらの資本は、社会階層ごとに不平等に分配されており、下層ほど資本が少ないということになる。例えば、病気で失業しても、資本を多く所有する上層の人たちは、失業期間は貯蓄でまかない、最新の治療を受けて病気を治し、人脈と学歴を使用してすぐに就職ができ、豊かな生活を送ることができる。
 ところが、資本が少ない下層の人たちは、病気で失業すると、失業期間中でも食べることに困り、求職しても低学歴のために見つからず、そのうち家賃も支払えず、さらに生活保護受給の窓口と手続の知識も知らないためにホームレス化する。湯浅氏のいう溜めとは、ここでいう資本のことである。そして、資本を不平等に分配する格差社会を批判する。
 
 ところで、当たり前のことであるが、資本は所有するだけでは機能しない。所有しているだけでは、宝の持ち腐れである。お金をもっていても、使用しなければ、飢え死にする。人脈も学歴も使用しなくては、意味がない。資本の使用権限は、誰にあるのか? もちろん、使用権限は、その所有者である個人にある。個人が自己の所有する資本を使用する場面を自己選択するわけである。
 どんな社会的状況でも、資本の使用が有効であるわけではない。外国に行くと、自国の文化資本や社会資本はあまり役に立たない。経済資本が役に立つのである。資本といっても、特定の国民社会の中でのみ、資本たり得るわけであり、有効である。
 (使用する/使用しない)という区別に準拠して観察すると、資本は使用されている時のみ、社会的機能を発揮するのである。究極的に資本を使用するかしないかは、個人の自己選択に帰着することになる。極端な話し、自己の所有する資本=お金を使用しないのなら、いくら金持ちでも、失業すると、ホームレスになるのである。
 どのような社会的場面で、どのようなかたちで資本を使用するのが適切なのか判断する知恵=社会学的啓蒙があって、はじめて資本は適切に機能する。ブルーワーカーの職業では学歴はあまり役に立たない。高学歴なのに、組織労働の伴う事務労働を嫌い、単純な肉体労働を選択し、その結果、重労働で体を壊して失業し、貧困化したら、これは自己責任である。また、低学歴なのに、選り好みして、公務員や事務労働ばかりを希望し、就職できないままいるひきこもり系ニートが貧困化した場合も、自己の資本の見積もりを間違って使用しているので、自己責任である。

 このように自己の所有する資本を適切に使用できない責任は、社会ではなく、個人にあるのである。社会を変えるよりも、貧困化している若者に対しては、所有資本の正確な見積もりと、その使用の仕方について、教えていくことが必要である。資本が乏しいと嘆く前に、資本の認識と使用方法について吟味し、資本を増やすことを心がけてはと思う次第である。資本の自己管理と適切な使用、それに資本の増加について、努力していない若者が貧困になっていることはないであろうか?
資本が少ない貧困な家庭からも、資産家になった人たちはいくらでもいるのである。これらの成功者は、資本の運用について優れているのである。
 資本の運用こそが貧富の差をつくる原因であり、それは個人の自己選択の結果によるのである。社会を変える前に、溜め=資本の運用についての知識=社会学的啓蒙を学ぶべきである。

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by merca | 2010-06-13 23:50 | 社会分析 | Trackback | Comments(0)

反貧困思想の教典 「椅子とりゲーム」のトリックを暴く

 社会に貧困の原因や責任があるという反貧困思想の原理的本質は、椅子とりゲームという理論的物語にある。反貧困思想にとって、このモデルは、社会契約思想の原初状態の物語に匹敵する理論的仮定である。
 椅子とりゲームとは、要するに、椅子の数がゲーム参加者の数よりも少ないために必ず椅子に座れない脱落者が出るという仕組みをもつシステムである。敗者こそが貧困者となるわけである。
 重要な点は、反貧困思想では、敗者に敗因があるのではなく、椅子の数に原因があると考える点である。椅子の数は社会の喩え、ゲームでの敗者は貧困者の喩えであり、椅子の数が少ない社会が悪いと考えるわけである。必ず敗者=貧困者が出るという社会の仕組みこそが貧困の原因であり、従って社会を変革する必要があると考えるわけなのである。
 
 ところが、果たして椅子の数に敗者の敗因はあるのであろうか? 敗者がでるのは、椅子の数に原因があるのではなく、参加者の数に原因があると考えることもできるのである。参加者が椅子の数よりも多いことが原因であり、椅子の数には原因はないとも考えられるのである。つまり、一方的に椅子の数=社会が悪いと決めつけることはできず、ゲームの参会者側に原因があるとも言えるわけである。椅子の数は限られているのに、それを見極めず、闇雲に座ろうとする参加者の方に原因があるのではないか?
 
 例えば、宝くじが当たらないのは、宝くじのシステムの責任であるといい、宝くじの主催者を訴える人間はいるだろうか? 宝くじが当たらず、はずれて損した責任は、宝くじを自由意思で買った本人の責任である。それと同じであり、椅子取りゲームに参加して敗者になったのは、敗者がゲームに参加した自己責任なのであり、決して椅子の数に原因があるわけではない。
 競争倍率を考えずに、ゲームへの参加を選択する個人責任なのである。コンテストの脱落者、受験の失敗、これらは本人に原因があると見なすのが普通の考えであり、落ちたからといって、コンテスト主催者や大学を訴える人はいないのである。椅子とりゲームもこれと全く同じなのに、反貧困思想のトリックに騙され、貧困は社会が悪いと思わされているのである。
  それでも社会が悪いと言えるためには、富が人々に平等分配されるべきあると国家社会が約束した時のみである。全ての参加者が椅子に座れるようにしますと約束したときのみである。つまり、完全平等主義の社会が正しいと人々が合意したときのみである。反貧困思想の椅子とりゲームのモデルを見て、社会を変えるべきだと思ってしまう人は、自身が完全平等主義が正しいという前提を所有しているだけなのである。
 繰り返して言うと、反貧困思想の椅子取りゲームのモデルでもって社会が悪いと主張できるのは、平等主義が正しい場合のみであり、そうでない場合は全く正当化できないのである。
 要するに、反貧困思想の本質は、単なる結果の平等主義のイデオロギーである。これが結論である。従って、平等主義に賛成しない人たちを説得できないのである。
 
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by merca | 2010-06-05 10:10 | 社会分析 | Trackback | Comments(0)